星田さんへの『人民の敵』のインタービュー記事について
Intervjuo de HEL-eksprezidanto HOŜIDA Acuŝi en la gazeto "Ĵinmin no teki"

[人民の敵-第13号へ]


横山裕之

 『人民の敵』という九州在住の外山恒一氏が発行する月刊の“活動報告誌”があります。これには、毎号3、4本の対談、座談会、インタビューなどが掲載されています。それらの“歓談”の相手として登場する人の多くは、とくに地方都市でさまざまな政治的・文化的活動を模索する人々です。外山氏は〝アナキズムの延長としてのファシズム〟という特異な政治的スタンスを標榜しており、そのことによる“大衆からの孤立”への覚悟が誌名には込められていると表明しています。外山氏は、一時HELの役員を務めた札幌のM氏とは20年来の交友があり、90年代末のHEL大会にも参加しました。
 この雑誌の第13号と第14号に掲載するために、2015年9月25日、26日に、我が北海道エスペラント連盟の元委員長・星田淳さんのインタビューが秘密裏に行われました。星田さんは、ベテランのエスペランチストですが、その半生や考え方などから背景となるものをこのインタビューから感じ取ることができれば、エスペランチストとしての星田さんへの理解も深まるのではないかと思い、掲載をすることとしました。エスペラントをやっている人を、背景も含めて知るということもある意味重要なことではないかと考えています。
 場所は札幌市某所M氏宅において星田さんは二日間にわたってカンヅメ状態に近いまま、M氏と福岡からインタビューのために来道した外山氏による質問に矢継ぎ早に答えた、星田氏の記憶力にはM氏も外山氏も驚いたそうです。ここに関係各位の快諾をうけ、そのインタビューの内容を当ウェブページに掲載します。みなさまからのご批評、ご感想等をいただけると大変うれしく思います。若い北海道大学生などからは面白いとの評価を受けています。



「人民の敵」第14号

星田 九州大学時代(50~)に、エスペラントに関わりを持ってる教授が何人かいたという話を昨日したが(本誌前号参照)、人名事典(柴田巌・後藤斉編 峰芳隆監修『日本エスペラント運動人名事典』13年・ひつじ書房)を見るとそのうちほんの数人しか載ってないね。物故者のみ掲載という方針の事典だから、その人はまだ生きているということなのかもしれないが、私が学生だった頃の先生だから生きているとしたらかなりの年のはずだ(笑)。載っている人では、まず伊藤徳之助さん(1894~61。千葉県出身。物理学者。小学生時代の06年にエスペラントを学び始め、15年に東大エスペラント会を結成したメンバーの1人と事典にある。34年から58年まで九大教授。48年に日本初の人工降雨実験を実施した人、とのこと)。この人は私の学生時代には理学部長だったか、かなり地位のある先生だった。エスペランチストとしての実績もかなり古くからある人だと思います。我々との関わりとしては、講習会であるとかザメンホフ祭(エスペラント語の創始者ザメンホフの生誕祭)であるとか、そういう何か催しをやる時に「一言お言葉を……」と頼んだり、あるいはもっと本格的に〝講演〟をやってもらうとか。
M  そういうのは星田さんが依頼しに行ってたんですか?
星田 そうです。ただ、それ以上の深い関わりは少なくとも私はなかった。もう少しいろんな話を聞いておけばよかったなと今になれば思いますけどね。人名事典の記述によると東大を18年に卒業してるというし、実際すでに当時もかなり年輩の方ではあった。21年11月に九大で、物理学の講義をエスペラント語で実施したという記載があるでしょ。へーっと驚くよね(笑)。その講義記録でも残ってたら読んでみたいな。こっちは当時そういうすごい方だとは知らずに、気軽に「お願いしまーす!」という感じで接していたからなあ。失礼だったかもしれん(笑)。伊藤先生についてはそれぐらい。……事典には載っていないので、あるいはご存命なのかもしらんが、理学部に小野周さんがおりました(18~95。物理学者。42年に九大を卒業し、同助教授、東大教授を経て群馬大の学長に)。みなさんはご存じないでしょうが、この方が物理学の論文をエスペラントで書いておったのを私はたしかに見ておる。大学の紀要に出ておったのでね。「へー、ちゃんとやってる方なんだな」と感心しておった。この方には、エスペラントの活動で何かあればカンパをお願いに行ったこともあった(笑)。やはり私はあまり深い付き合いはなかったが、教えというより〝戒め〟をいただくことは時にあって、つまり「君たちの活動はそんなやり方でいいのか」というような、それでちょっと敬遠していたのが悪かったな(笑)。それから文学部の言語学に永松教授というのがいたが、この方も載ってないんだ。存命なのかもしれんが、だとすればどう考えても百歳は超えているはずだ(笑)。エスペラントをかなりやってる方だと聞いていただけで、お会いしたこともないんだけどね。いろいろ付き合いがあったのは、問田直幹さんという方で(11~99。27年、旧制福岡高校在学中にエスペラントを始め、34年に九大を卒業、53年から74年まで九大教授。福岡の中村学園大学の学長を務めていたこともあるようだ)、永松教授のことも問田さんから聞いておった。問田さんは載ってるね。この人は医学部の教授。父親も九大の教授だったと記載されてるし、学者一家だったんだろう。問田さんのエスペラント活動歴については結構詳しく書かれている。私が九大に入った時点で医学部の教授で、私たちの集まりにもよく出てくれる人だった。話も面白かったし、余興でも面白いことをやる人で、そういう社交的で人あたりのいい人だったから、エスペラントだけでなく活動分野はかなり広かったようだね。大学を卒業して北海道に来て以降も、九州には知人は多いし、そもそも熊本でエスペラントを始めたわけだから、とくに熊本でエスペラント大会その他、何かある時にはたいてい行っておった。問田さんに最後に会ったのもそういう時だな。……とまあ、学生時代に出会った教授たちでエスペラントと関係があったのはそれぐらいか。
M  意外と何人もいらっしゃいますが、当時の大学教授、あるいはインテリゲンチャの中にはエスペラントを経験してる人がそう珍しくもなかったということなんでしょうか?
星田 私の学生時代にはまだそうだったのかもしれませんね。卒業して以降それがどんなふうに変化したかはよく分からない。最近また誰かが教えてるらしいというのをどこかで見たような気もするけれども……(九大の大学院の言語文化研究院というところで今年8月にもエスペラント語の入門的な〝夏期集中講義〟がおこなわれたようだ。担当の田畑義之教授は外国語教育学などが専門で、ドイツ語やオランダ語の他、エスペラント語の授業も00年からおこなっているとのこと)。
M  では昨日の続きで、九大を卒業して苫小牧の王子製紙に就職したところから順を追って訊いていきましょう。就職して、労働組合に入ったと聞いてますが……。
星田 ああ、それは当然、社員は全員入るしくみになっておるから。
M  ユニオン・ショップ(全従業員に労組加入を義務づける制度)だったわけですね。
星田 そういうことです。組合員しか雇ってはいけない、組合が除名した者は会社も解雇しなければならない、というのが〝ユニオン・ショップ協定〟ですね。だから入社することが決まったら組合にも入らなきゃいけない。少なくとも私が入社した時点ではそうだった。で、苫小牧に来てエスペラントの運動を進めるのも、労働組合の青年婦人部でエスペラント講習会をやることから始めるわけだから、労組の話もエスペラントと関係してくるね。青年婦人部の集まりで「講習会をやりたい」と提案して、もちろんまず「〝国際語エスペラント〟とはこういうもので……」と説明しないと、そんなもの誰も知らないわけだが……いや、1人知っておる者がいたな。私よりちょっと年上の女性で、王子病院という、会社の病院の薬剤師だった。説明している時に、「エスペラントって、ユダヤ人が作った言葉だから嫌われてなかなか広まらなかったんでしょ?」と彼女に云われたんだ。云ってる内容はともかく(笑)、エスペラントを作ったのがユダヤ人だという知識はあるわけで、マイナス・イメージとして捉えられてるようだったけど、ちょっと驚いた。樺太から引き揚げてきた人だったし、ロシア人から何かヘンなふうに聞かされたんじゃないかな(笑)。それはそれとして、あれは56、57年頃ということになるのか、そんなふうにして希望者を募ってエンペラントの講習会を苫小牧でも始めた。チラシなんかも配った効果があったのか、それとも物珍しさからということか、20~30人集まったように記憶している。
M  それは労組の青婦部の中で、ってことですか?
星田 うん、だから王子製紙の従業員の範囲でのこと。始めのうちは順調に進んでおったんだが、あれは58年だな、ちょうど情勢が悪くなってきたんだ。組合と会社との関係が、賃上げ交渉から始まって、かなりこじれてね。最後には会社側から労働協約改定の提案が出て、さっき云ったユニオン・ショップ制、〝組合が除名した者は会社も解雇する〟というのは会社側も組合の団結権を保障するということなんだが、この協約を破棄すると云ってきた。それで結局、無期限ストということになる。組合の施設も使えなくなるから、講習会もそこで立ち消えだよね。争議は1年以内には一応終わったけれども、後遺症はしばらく続くので、組合の施設をはじめ会社内での講習会はまず難しいという状況になった。他にいい場所はないかと考えて、苫小牧市公民館を使うことにする。いろんな文化団体が使っていたし、「エスペラント講習会をやりたい」と申し込んだらもちろんすんなり通って、しかも公民館は無料で使えるし、実に良かったんだ。最初はどのくらい集まったかな。まあ、わりと集まったと思う。やっぱりたしか20人以上は集まっておった。正式に「苫小牧エスペラント会」を作るのはもう少し後の時期になるけれども、実質的にそれに近いようなものは、講習会を続けているうちに徐々にできていく。エスペラント関係の〝展示会〟も、鶴丸デパートだったか、苫小牧に当時あったデパートで開いたり、北海道エスペラント大会もその頃にもう苫小牧でやってて、全道から結構な人数が来てくれましたね。そのあたりまでは順調にいってたと思います。
M  星田さんは歌を唄うのもお好きですが、それはいつ頃からなんですか?
星田 うーん……そりゃあ好きなのは子供の時からだよ(笑)。
M  あんまり頭の良くなさそうな子供だったんですか?(笑)
星田 少なくともウチの兄妹はみんな唄っておった。それはやはり母親の影響だな。よく子供に歌を唄ってきかせてたからね。母はクリスチャンだし、賛美歌が多かった。それを聴き覚えてよく唄ってたと思う。下っ腹に力が入って発声練習にいいのは、やはり便所なんだ。いつだったか、ウチに来た親戚のおじさんが「便所で歌を唄うのは星田家の家風だ」と云っておった(笑)。
M  星田家は家中みんな便所で唄うんだ(笑)。実際に合唱団とかに入るのは……。
星田 我々は小中学校の時代がちょうど戦時中だったから、〝音楽の授業〟というのはほとんど記憶がない。だから音楽的な素養云々は、母親の賛美歌と、便所で唄うのと(笑)、それで身につけたんだろうな。合唱団に入ったのは五高(旧制第五高等学校。現在の熊本大学)時代だね。あ、昨日も話したでしょ。米軍基地の教会で賛美歌を唄うことになって、向こうから車で迎えが来たんだけど、その場面だけを見てた市民が誤解して「学生たちが米軍に連れ去られた」ってちょっと騒ぎになった、って(笑)。あれもその合唱団での話。五高での私の第1外国語はドイツ語だったし、合唱団ではドイツ語の歌もかなりやっていて、発音練習にもなると思って入ったんだ。熊本では最初の、ベートーベンの〝第9〟の演奏会での合唱隊にも私は参加してます。
M  〝熊本で最初の〟というと、いつ頃になるんですか?
星田 47年あたりだったかな。
M  戦前には〝第9〟は一般にはそんなに広まってなかったんですか?
星田 戦前には聴いた記憶がない。そもそも熊本に来たのはもう戦時中で、戦〝前〟は大陸にいたし、熊本の事情はよく分からない。
M  現在ではこんなに〝第9〟が歌われてる国も他にないのに……。
星田 全国レベルでは、一次大戦の時にドイツ兵捕虜たちが四国の収容所で〝第9〟をやったという話は何かで読んだし、もしかしたらそれが最初なのかもしれない(そのようである。18年6月1日)。
外山 第二次大戦の時にはドイツは敵国ではないし、ベートーベンは〝敵性音楽〟ってことにはなってなかったでしょうけど。
M  九大時代にも、エスペラントをやる傍ら、歌もやってたんですか?
星田 うん、合唱団に入ってた。
M  それは苫小牧でもやっぱりそうなんですか?
星田 やっぱりそれも組合で、何人か歌の好きな者で合唱団を作ろうというということになって、あれは当時のいわゆる〝うたごえ〟(50年代から60年代にかけて拡がった、日本共産党系の文化運動。オーソドックスな合唱曲の他、反戦歌や労働歌、ロシア民謡などがよく歌われた)系統のグループだったな。当時の苫小牧地区労の中の文化サークルのような位置づけだったと思う。「ひまわり合唱団」という名前で、指揮者をやっていた苫小牧西高校の先生は、後に共産党の市会議員になる。ただ、この人は非常に魅力のある人で、男から見てもそうだったから女性にはなおさらであったろう、女性問題を理由にやがて共産党を除名された(笑)。
M  〝うたごえ運動〟は当時の共産党が展開した〝民主的な文化運動〟ですが……。
星田 そういうふうに云われてはおるが、我々にはそんな自覚は何もなかったけどね(笑)。〝北海道のうたごえ〟という催しが札幌の中島公園でおこなわれて、そこへ行って歌ったこともある。「苫小牧音頭」とか、そういう民謡的なものをいくつか歌ったような気がする。〝うたごえ運動〟というと労働歌なんかがイメージされると思うが、我々はやってなかったな。
外山 ロシア民謡はやってたんじゃないですか?
星田 それはあったかもしれんが、あまり記憶には残ってない。
M  〝歌声喫茶〟(50年代半ば頃から各地に誕生し、〝うたごえ運動〟の拠点となった。70年代にその大部分は消えていったという)なんかもあったんですか?
星田 当時の苫小牧にはなかった。ただ私はちょうどその頃、千歳発電所に異動になるんだ。苫小牧へ出る機会があれば合唱団にも顔を出した。王子製紙はニセコ町の尻別川のところにも発電所を持っておって(06年に廃止)、そこへ長期出張に行って戻ってきた時だったか、事情は分からないが「ひまわり合唱団は」は消えておった。その後は「苫小牧合唱団」という、49~50年頃から続いている、公民館サークルでは一番古いグループがあって、そちらに入団の申し込みをした。ところが当時は、合唱団どうしの対抗意識がかなりあったらしくて……いや、まだ「ひまわり合唱団」がある頃、千歳発電所に異動になる前の時期に入団を申し込んだんだな。すると〝二股加盟〟は認められないというんだね。入れてもらえなかった。〝スパイ〟のように思ったのか、それとも「ひまわり合唱団」そのものを〝赤い合唱団〟と見て警戒しておったのか、そこらへんはよく分からない。やがて千歳発電所の勤務からまた苫小牧に戻してもらって、改めて「苫小牧合唱団」に入団を申し込み直したら、もう「ひまわり合唱団」もなくなっておったし、今度はすんなり入れてもらえた。そっちの指揮者もなかなか面白い人だったが、もう80を超えてるはずなのに今でも元気で、現役で続けている。苫小牧合唱団ではずっと活動をして、私も飲み屋なんかで声のいい者を見つけると「ウチの合唱団へ来ないか」と誘ったりしておった。女の子も何人か誘って、そのうちの1人が今の我の〝山の神〟である。
M  結局ナンパじゃないですか(笑)。
星田 60年代のいわゆる高度成長時代には、私もすでにその〝山の神〟と一緒になって王子製紙の社宅に住んでおったが、工場は増設につぐ増設、紙を1日に何万トンと作っておるわけだから、その関係の工事で時間外勤務や休日出勤も多くなって、合唱団にもエスペラントの会合にもなかなか顔を出せなくなるんだ。合唱団の方はそこで退団する。エスペラントの方は、勤務時間に「ちょっと外出します」などと云ってごまかしては公民館に行って、1時間か2時間ほど教えてまた会社に戻って知らん顔をしていた(笑)。そういう良からぬことをやっていたんだが、会社には見つからなかったようだ。
M  たしか、最初にいた労組が争議を経て少数派組合に転落してしまうという話があったように思うんですが……。
星田 うん、そういうことがあった。
M  〝2組〟(第2組合のこと。労使協調路線のいわゆる御用組合であることが多い)が誕生するわけですよね。それはいつ頃のことですか?
星田 組合の分裂は、例の無期限ストが長期化した時にはもう始まっている。58年とかだったと思う。
外山 時代的には三井三池闘争なんかが盛り上がってる頃ですね。
星田 そういう時代だったんだな。会社側がとる対抗手段もまたどこも同じようなもので、組合への不満分子や、あるいは会社の勤労部なんかの息のかかった者を使って組合を分裂させて、その後は差別待遇をおこなって、こっちの組合に入っていると給料面でも昇進面でも差をつけられてしまう。
M  星田さんはなぜ〝2組〟の方に入ろうとは思わなかったんですか? 所帯を持ったんだし、お金は必要だったでしょう?
星田 私の場合はどういうかな……まあ気に食わんことはしたくないだけのことだ(笑)。あっちの組合へ行くと、心にもないようなことでも「その通りです」と云わなきゃならん雰囲気があった。内心「この野郎」と思ってるような相手にも「お世話になっております」と云わなきゃならんようなね。私の場合はただそれだけのことだよ。
M  それで結局、退職まで〝1組〟の組合員だった、と。
星田 そうだね。
M  ハタから見ている感じでは、星田さんのエネルギーの源泉の1つはやっぱりエスペラント運動で、もう1つが合唱団活動で、その2つの間を行ったり来たりすることが星田さんのエンジンとなってるような気がするんです。
星田 そういう見方も成り立つかもしれない。……当時の組合にはやっぱり古いタイプの人間も多いんだ。労働組合というものは本来は組合員のために活動するはずなんだが、第1組合に残った者の一部には、理念が先行しているようなタイプが結構いた。こちらの理念の方が正しいんだから第2組合には行きたくないという、それはそれでいいんだが、理念の正しさを追求して清い人生を貫いていくというだけでは困るんだ。それで私も、会社から差別待遇を受けてるじゃないか、自分の頭のハエも追えんような組合には魅力がないだろう、と盛んに云ってたら、そのうち動いてくれる人も出てきた。差別待遇の件を労働委員会に提訴するということも、だいぶ遅れたんだが、やることにもなった。差別待遇の証拠集めや整理なんかは私がだいぶ率先して、何人か仲間を集めてやりましたよ。
外山 いつ頃ですか?
星田 65年ぐらいかな。70年にはなってなかったように思うが、まあその前後だ。労働委員会では、たしかに差別待遇、労働法で云う不当労働行為があるということで、私も何度も審問の場に組合側証人として出て行った。会社側の弁護士は、大学を出た人間は苫小牧の組合には私1人だけだというんで、何か怪しい背後関係があるんじゃないかということを印象づけようと苦労しておったようだが、細かい事はもう忘れたな。公益委員という、組合側でも会社側でもない中立の立場の労働委員会の人が、会社側の人間に対して「こういう状況だとやはり第2組合に入った方がいいと思う人は多いでしょうね」と云うと、「会社に協力して生産を上げるという趣旨に賛同して第2組合に移る人間が多かったようです」と会社側が答える。第2組合ができたことを「喜ばしい」とする会社側の声明もたしかあって、「そんなふうにして第2組合の人間の方が多くなったということは、会社としては非常に喜ばしいことですね」とその公益委員はカマをかけるんだ(笑)。会社側の証人が「それはもちろんです」と答えたら、弁護士がアワを食って「そんなこと云わないでくれ」って(笑)。
M  しかしもう遅いね(笑)。
星田 不当労働行為を会社側の証人が自ら認めたようなものなんだ。あれは面白かった。
M  それで勝利できたんですか?
星田 その件はね。会社側は、賠償金というか〝見舞金〟を組合側に何千万か払ったよ。それはだいぶ安くて、もう少し時代が後なら何億という額になったはずなんだけど、まあ組合側もそれで妥協しちゃったんだ。
M  〝うたごえ〟があり、労働組合での活動があり、もちろん会社の仕事があり、さらに家庭のこともあり、そしてエスペラントがあるという、さまざまなことがある中でのエスペラントの位置はどうだったんですか?
星田 もちろん優先順位の第1ですよ。
M  どうしてそうなったんですか?
星田 なぜか自然とそうなっておった。
M  使命感のようにものを持ってたんですか?
星田 あるいはそうかもしれん。
外山 それは五高時代や九大時代からですか?
星田 次第にそうなってきたんでしょう。自分が行く先にエスペラント会がなければ自分で作る、ということを繰り返しておったからね。
外山 五高、九大、苫小牧以外でもエスペラント・サークルを組織したことがあるんですか?
星田 頼まれて作りに行ったことはある。あちこちに行ったよ。まず鵡川かな。
外山 それは北海道の地名ですか?
M  うん、北海道内の町の名前。
星田 苫小牧から日高地方、襟裳岬方面へちょっと行った、わりと近い場所だけど、鵡川の何といったか交通運輸関係の、トラックをたくさん動かしてる会社の社長と、その周りの神主やら何やら地元の名士たちと、友達づてに知り合いになった時にエスペラントの話をすると、「鵡川でもやってくれませんか」と云うので講習をしに行ってた。最初は40~50人集まったかな。鵡川で会を作って、その後だんだん減りはしたが、5年ぐらいは続いたと思う。私が行かなくなって直接の関係があまりなくなると、やがて消滅してしまった。それでもその後もしばらく苫小牧まで出てきてエスペラントを続ける人も何人かはいたね。……それから千歳。当時は市民病院の院長で、後に中里病院を開業した中里院長に頼まれて、千歳の市民会館だったか公民館だったか、毎週行って講習会をやっていたことがある。あの時は自衛隊関係の人も何人かいて、その中には結構なレベルの者もいたし、面白かったですね。何年続いただろうか。そのうち「千歳エスペラント会」を中里さんが立ち上げて、千歳の駅から繁華街へ行く途中の緑地帯のあたりに〝千歳エスペラント会の家〟というのを建ててたけど、あそこは10年以上続いたと思う。だけど、千歳在住で中里さんと一緒にやっていた池本盛雄さんという朝日新聞の記者がいなくなると、続けられなくなったようだね。
外山 その鵡川や千歳の話はいつ頃のことですか?
星田 70年代かなあ。
M  苫小牧でのエスペラント運動はスムーズにやれましたか?
星田 スムーズにいってた時期もあった。80年代半ばあたりまではスムーズだったように思える。その後はやはり新しい人がだんだん少なくなってきたというか、それは札幌でもやはり同様であるように見受けられるけどね。
外山 それまではそれなりに新陳代謝が?
星田 70年代のうちはあったと思う。80年代に入ったあたりから、日本の社会状況がどうも変わってなと感ずるね。
外山 苫小牧での活動とは別に、札幌のエスペラント運動にもある程度は関わってるんでしょ?
星田 札幌エスペラント会が「かでる2・7道民活動センター」という建物で活動していたが、ココ(M邸)にもよく集まった。ココが北海道エスペラント連盟の事務所だった時期もあるし。
外山 それはだいぶ後の時期ですよね?
星田 いつ頃だっただろう。
M  90年代後半の一時期ですね。
外山 札幌の運動はやっぱり50年代とかから続いてるんですか?
M  もっと前からえる。
星田 札幌は明治大正の時代から始まってるよ。
外山 もちろん星田さんも札幌の人たちとは……。
星田 それはもちろん最初から連絡をとってる。
M  ぼくが星田さんに初めて会ったのは、支笏湖かどっかでの合宿だったかな?
星田 ああ、そういうことがあった気がする。
M  72、73年頃、まだ全共闘運動の香りが残ってる頃ですよ。
星田 場所はどこだって?
M  ナントカ荘ってところで……。
星田 北大の合宿所もあのあたりにあった。
M  そこではないです。73、74年かな、ぼくは札幌北高エスペラント同好会というのを作ろうとして、女の子を3人ぐらい誘ってた時期がある。その時にみんなで合宿に参加していて、たぶんその時に星田さんにも会ってるはず。
外山 へー、高校生の時なんだ。
星田 支笏湖の翠明閣というところかな。
M  あ、それっぽい。
外山 高校時代からエスペラントに関心があったんですね。
M  たぶん本田勝一の影響だと思う。当時ぼくは民青だったから、〝反米愛国〟だったでしょ。何で英語を勉強しなきゃいけないのかって、実は英語の成績が悪かったからそう思ったんだけどさ(笑)。それでちょこっとエスペラントをやった覚えがある。
外山 本格的にやるのはもっと後ですよね?
M  うん、だいぶ後。〝ほっけの会〟が終わってからだね。〝ほっけの会〟の後半の時期からやり始めて……。
外山 〝ほっけの会〟は車の運転とエスペラントが〝必修〟だったと聞いてるし。
M  あと銃を撃つこと(笑)。
外山 海外で訓練してましたよね(笑)。
M  苫小牧エスペラント会には、最初の頃は苫小牧工業なんかからも来てたんじゃないですか?
星田 学校にポスターを貼りに行ってたし、それなりに反応はあった。会社での例の争議が一段落して、またエスペラントの活動を再開した時だから、60年代だね。65年には東京で世界エスペラント大会があったし、そのあたりにある種のピークがあったのかな。70年代の半ば以降は、上昇ということがない。
外山 〝苫小牧工業〟というのは高校ですか?
M  高専。
星田 いや、高専とは別に元々は「苫小牧工業学校」というのがあって、それが今では苫小牧工業高校になってる。
外山 で、そこの生徒が……。
星田 来ておった時期もあります。しかし70年代に入ってからは学生はもうあまり来なくなったね。
外山 その工業高校では、生徒が自主的にエスペラントを始めたんですか? それとも誰か熱心な先生がいたとか……。
星田 歴史的には昭和の初年度あたりから工業学校にエスペラントの集まりがあって、かなり活動的だったんですよ。もちろんそれは昔の話で、我々の頃には、散発的に何人か来るような時期もあるという程度。今から思えば、誰かいい先生を捕まえるべきだったな(笑)。
M  苫小牧工業には学生運動はあったんですか?
星田 ほとんど聞いてないが……出身者に1人、作家がいたね。道新(北海道新聞)に勤めていて、小説を書くようになったっていう人がいたでしょ。小檜山博だ。
M  知らないですね。
星田 JR北海道の急行に乗ると、JR北海道の広報誌が置いてあるでしょ。あれに毎回エッセイを書いてるよ。あとは〝9条の会〟やなんかにちょいちょい出てきて何かモノを云ってる。工業高校時代は貧乏学生で、夜は近所の畑を荒らしてジャガイモを盗ってきて食ったとか(笑)。
外山 その人もエスペラントをやってたんですか?
星田 いや、エスペラントとは関係なく、ただ工業高校がらみで思い出したというだけ。
M  苫小牧のエスペラント会のメンバーは、まず王子製紙の社員、それから市役所の職員もいましたよね。
外山 王子製紙の社員というのは、まず労組で活動を開始した時からずっと残ってる人たちですか?
星田 友人として残ってくれたんでしょう。ただその人たちも最近ではだんだんとあの世へ行く人が多くてね(笑)。人が減っていく一方で、何か新しい人が入ってきてくれるようなことを考えなければならんと思ってはいるんだが……。
M  若いのを騙すのは任しといてください(笑)。……横山さんはどういう人でしたっけ?
星田 彼は道の職員で、環境管理関係の職種だな。苫小牧に赴任している時にひょこっと現れて、それ以後ずっと続いてる。それから柴田病院の柴田先生の家族がいるが、それはやっぱり彼が学生時代からやっておったからね。
外山 星田さんが誘ってエスペラントを始める人以外に、そうやって学生時代とかにどこか別のところでやっていた人が苫小牧に来て、連絡があるということも……。
星田 時にはあったけど、長く続いた人はあまりいないかな。最近だと在日韓国人が1人いる。エスペラントをやっておったというのは前々から少し聞いてはいて、それで最近はザメンホフ祭などでは彼がやってる韓国料理店を使ってたら、それ以外の集まりにもひょこっと来てくれるようになってきた。40~50代で、そんなに若い人というわけでもないけど。
外山 さっきチラッと、日本で世界エスペラント大会をやったという……。
星田 65年東京が最初ですね。
外山 あ、その後もやってるんですか?
M  横浜でやってる。
星田 数年前のこと。07年、横浜。日本でやったのはその2回だ。しかしその間に北京では2回やってるし(86年、04年)、ソウルでもやってて(94年)、日本でももう少し開催されていてもいいはずなんだが……。
外山 戦後の日本でエスペラント運動が量的に一番拡大していたのは、やっぱり60年代ですか?
星田 そうですね。東京で世界大会をやった後、5年か10年ぐらいの間。
M  それは大会の効果もあったんでしょうけど、2回目の横浜大会ではそういう効果はなかったんじゃないですか?
星田 うん、なかった。
M  2020年の東京オリンピックを占うよ。2匹目のドジョウは絶対いないんだ(笑)。
小川 横浜で07年におこなわれてたんだ。
外山 エスペラントのことを少しは知ってるぼくらですら、そんなことは知らなかったもんなあ(笑)。
星田 その時はたしかに世界中から来てくれたし、国内からの参加もかなり多かったけど、それによってエスペラント学習者が増えるという効果は見えなかった。
M  ぼくは07年は本当は夕張で開催すべきだったと思います(笑)。負債で破綻した過疎の町に世界中からエスペランチストがやってきて夕張市民を励ますというのは、まず〝いい話〟になるでしょ。実際に町じゅうがエスペランチストだらけになるし、ただマウントレースイ(スキー場)のホテルにどのくらいのキャパがあるかだな。3千人ぐらいのキャパは必要なんだ。
星田 北海道大会には充分だけど。
M  民宿で充分ですよ(笑)。
星田 日本大会も大丈夫だろう。
外山 最近は日本大会にはどれぐらいの参加者があるんですか?
星田 多い年で千人ちょっとだろうか。
M  5百から千ですね。……夕張に1人もエスペランチストがいないことがネックだな。現地に1人でもいればやることは可能なんだ。
星田 夕張と云えば、苫小牧にいたあるエスペランチストを思い出す。さっきから話してる争議の関係ですね。当時は支援の組合が各地から来て、とくに炭労からの支援が多かった。夕張からもかなりいろんな人が来てくれた。思い出す人というのは……朝鮮生まれで、大阪にいた時代にはおそらく共産党員で、演劇関係の活動をしていたという写真も見せられたことがある。苫小牧に来た時点ではクリスチャンで、そういう変わった経歴の人だった。苫小牧では朝日友好協会でも活動して、といっても彼自身は南の方の生まれだけど、朝日親善の催しにもよく出ておった。我々の争議についても知ってるというし、経歴からして関心があったんだろうね。で、夕張の閉山の時に、閉山反対ということで夕張の労働者を激励に行きませんかと彼が提案してきたんだ。ちょっと唐突な感じがしたけど、彼が云うには、かつて道内各地で労働争議が起きた時には夕張の炭労が必ず支援をしてくれてたのに、その夕張で炭坑も労働組合もなくなってしまうという時にこっちから何も挨拶しないのはいかがなものか、と。そこは私も同感だったけど結局は行かなかったな(笑)。その後、彼は「苫小牧のクリスチャンとは結局話が通じませんでした」というようなことを云って自殺してしまった。
外山 いつ頃ですか?
星田 86年5月19日でした。だいぶ古い話ではあるね。苫小牧の海岸で、焼身自殺だった。苫小牧のエスペラントの会にはずっと来ておったが……。
M  エスペランチストにはどうも思い詰めるタイプの人が多いような気がする。いろんなタイプがエスペラント界隈に出入りする中で、真面目で地味な方々が残って運動の主流を形成していってる。
星田 〝真面目で地味〟とは対極のような人もいるけどね。富山県の出身で、富山で日本大会があった時には参加しているというので写真を見たらたしかに写ってるんだ。彼は相当の家柄の私生児というか、妾の子だかで、やがて富山には居にくくなって、〝富山の薬売り〟の資格も持っていたし、あちこちに商売に出るようになったらしい。北海道では同和会の仕事をしていると云ってたね。同和関係の団体はいくつもあるけど、保守系の団体で総理府ともつながっていて(「全日本同和会」は自民党系の同和団体だったが、86年以降は同会から分裂した「自由同和会」が〝自民党系の同和団体〟となっている)、貧しい人に融資する時に審査をする仕事だとかいうことだった。経歴を聞いてみると、ある時は共産党、ある時は創価学会、どうも正体のよく分からないところがあったが、自分の権利やなんかを主張する時には極めて理路整然と詰め寄ってくるので、うっかりしたことは云えないなと時に感じさせられもした(笑)。まあ、だらしないところもあって、糖尿病だと云われておるにも関わらず、入院してる病院に菓子を持ち込んで隠れて食っておったりして、これはダメだと思って「少し運動をしろ」と山菜採りに連れ出したりもしてたね。一時期は一緒に自転車で苫小牧と支笏湖を往復したりして、だいぶ症状も良くなっておったんだが、しばらくするとまたダメになって、入院先でやっぱり隠れて菓子を食ったりしてたようだ。最後は室蘭に移ったけど、そこで死んだ。そういう、共産党だの創価学会だのクリスチャンだのと、変わった人間がなぜ苫小牧に集まっておったのか、理由はよく分からんけれども(笑)。
M  じゃあ星田さんから見て〝エスペランチストの一般的な像〟というのは特にない感じですか?
星田 それはやっぱり、さっき云われたような〝真面目で一筋〟なタイプがかなりの割合を占めていると思う。ところが一方でそれに当てはまらないような者も一定いて、それでウチの〝山の神〟も、「あんたのところには変な人ばかり集まってくる」と云っていて、おそらくその中の1人としてM氏も数えられている(笑)。
外山 97、98年に、ちょうどココが北海道エスペラント連盟の中心になってた時期の北海道大会にぼくも来たけど、アメリカ人が2人いて、両極端だなあと思いましたよ。1人はすごく真面目な理想主義者で、〝世界中の人々が1つの言語を共有すればもっと相互理解が深まって戦争もなくなる〟的なことを熱く語るような人だったけど、もう1人は、単にアメリカのパワーについて行けないダメな感じのアメリカ人だった(笑)。
星田 そんな人がいた?
M  いましたよ。彼はたぶん鬱病だったと思う。名前を忘れちゃったが、痩せたアメリカ人。その時にちょうどミコ・スローパーもいて、これが彼とは対極的な〝明るいアメリカ人〟なんだ。もう1人の〝暗いほう〟は、たまたまぼくが拾ったんですよ。いきなり電話がかかってきて、お金もないし住むところもないと云うんで、ウチにしばらく住まわせて、大会にも誘った。
星田 じゃあ当時の参加者名簿を見れば載ってるのかな。
M  載ってるでしょう。ミコ・スローパーが参加した年です。もうほんとに、ダメチンだったんですよ(笑)。
星田 まあともかく、苫小牧には変な人が時々まぎれ込んできた。
M  全国でそういうふうに云われてるんじゃないですか? 〝ウチのサークルにはどうして変な人ばかり寄ってくるんだろう〟って(笑)。
星田 苫小牧にはもう1人、あれはマトモなほうだと思うが、郷土史研究の本を何冊か出している人がいた。樺太の生まれ育ちで、そこを時に訪ねたりする関係でロシア側ともつながりを持っていたね。北海道大会を苫小牧でやった時に、松浦武四郎(1818~88。幕末から明治期にかけて蝦夷地を探検し、「北海道」それ自体をはじめ北海道のさまざまな地名を定めた)について講演してもらってる。年は私よりひと月ばかり上だったが、一昨年あたり心臓で亡くなった。40~50年前にエスペラントを熱心にやっておったようで、しかしその後は転向してあまりやらなくなって、まあ会えば挨拶ぐらいはエスペラントでスラスラ云ってはいたけど。
M  短い期間だけ一所懸命やるという人は多いですよね。その一方で、惰性で続けているというか、エスペラントが〝世界語〟になるとは思わないけど、〝乗りかかった船〟だから続けています、というような人も多いでしょう?
星田 それはかなりいると思う。もっとも、エスペラントを〝世界語〟にする、とはエスペラント側でも云ってはおらんよ。〝共通語〟として使用できるように、とは云うけど……中国語では「エスペラント」は「世界語」という名前だね。
外山 星田さんは就職で苫小牧に移ってきて以降は、ずっと苫小牧から動かないんですか?
星田 そうですね。あちこちに活動を手伝いには行ったが、千歳なんかも中里先生が亡くなってからはあまり行く機会もないな。
外山 エスペラントがそれなりに〝運動〟として存在するのは、北海道では札幌と苫小牧だけですか?
星田 〝会〟があるのはその2ヶ所だけ。小樽にもあるけど、やってる人はもうかなり高齢だし、名前が残ってるだけで実質的には動いてない。
外山 歴史的には、星田さんが作った千歳と鵡川以外にもエスペラント会が存在したことはあるんですか?
星田 昔のことを云うなら、70年代あたりまでは函館にもあった。函館には樺山君がいるんだけど、なかなか動いてくれないんだよな。
M  あまり組織活動が得意な人ではないですよ。
外山 その人は〝ほっけの会〟にいた人でしたっけ?
M  いや、違うけど、ウチに居候していた時期はある。
星田 そういうこともあったね。彼もエスペラントを始めたのは北大時代だったかな?
M  そうだと思います。
星田 北大の薬学部を出ていたはず。
外山 北大のエスペラント研究会は、ここ数年はM 界隈の学生たちが担ってるようだけど、それ以前はどうなってたんですか?
M  1919年に結成されていて……。
星田 うん、歴史は古い(笑)。何度も消滅したり復活したりを繰り返してる。
M  00年頃にも3、4人でやってた。
星田 大鋸敏雄(オオガトシオ)たちの頃?
M  そうですね。それ以前となると、ぼくが把握してるところで70年代に「ロンド・ノルド」(エスペラント語でrondoは「円、サークル、会」、nordoは「北」)という北大生のグループがあり、さらにその前には戦後すぐの北大エスペラント会の再建という出来事がある。戦前は大正時代の結成の後、弾圧事件を経て自ら解散したんだ。
星田 昭和の初めだね。
M  治安維持法に引っかかるのを恐れて……。
外山 じゃあ北大のエスペラント会はまさに〝断続的に〟存在してきたんですね。
M  どっちかというと軟弱な歴史(笑)。
星田 現れては消え、で。
M  やっぱりやがて卒業していっちゃうんだし、リクルートがうまく機能させられないとその代だけで終わっちゃうんだ。
星田 沢谷雄一がいたのは60年代?
M  いや、73、74年までいますよ。
星田 そんな時期までいた?
M  あるいはすでにOBだったのかもしれないけど。
星田 彼の北大時代に理学部の封鎖があって、彼も篭城に参加した1人だったんじゃないかな。その時期には少なくともいたはずだ。
M  69年ということになりますね。70年代のエスペラント合宿に行って、学生たちと酒を飲みながら話したんだけど、その時に〝黄色いヘルメットの暁部隊〟(共産党=民青が全共闘との対決用に組織した内ゲバ用の学生部隊)の話なんかも聞いた(笑)。
外山 彼らはもちろん反日共側で?
M  いや、日共側だったと思うよ。黄色いヘルメットの1万人の集団がジグザグデモをしているのを講堂の上から見た全共闘の連中が震え上がったって、誇らしげに話してたもん(笑)。ぼくも当時は民青だから、頼もしい話として聞いてる(笑)。
外山 東京の話ですよね?
M  うん。事実関係はよく分からないが、全国動員で北大からも行ってた奴もいるんでしょう。……星田さんはリクルートの才能があるんだと思うんですよ。
星田 なかなか上手くいかないことも多いんだが(笑)。
M  ぼくも才能があるほうだと思う。
星田 それはそうだろうね。
M  ただぼくの良くないところは、リクルートはするんだけど、その人たちの面倒を見るのはあまりやりたがらないという(笑)。なるべくお互いにお互いの面倒を見てほしい。逆に星田さんは全部の面倒を見ようとしてしまうから……。
外山 却って後継者が育たなくなってしまう、と。
M  そうそう。面倒見が良すぎるんですよ。
星田 そうかなあ。
M  だって今でも講習会の講師をやってるんでしょ?
星田 まあ、そうだけど。
M  ぼくはそんなことやりませんから(笑)。
星田 やらずに、どうするの?
M  そもそも出席しませんもん。後で報告だけ受けるのが基本。もちろん、この人はきちんと教えてやらなきゃ自分ではやらないなと思えば、ぼくの教え方なんてテキストをただなぞるだけなんだけど、週1でも毎日でも付いて教えますけどね。
星田 最近は私も、〝丁寧に教える〟というのでは逆に進歩を妨げるかなと思って、やり方を変えてはいるよ。
M  ぼくが星田さんの教え方で1つだけ不安なのは、相手が何かの単語の意味が分からなくて、これはどういう意味かと訊いてきた時に、星田さんがしばしば日本語で答えてしまうことなんです。「コメ」が分からないと云うんだったら、「白くて、食べるもの」とでもエスペラントで説明すればいいんですよ。
星田 そういう意見は初めて云われたね。私の場合は、日本語で訊かれたら日本語で答えるようにしてきた。「リーゾとは何か?」と日本語で訊かれたら「コメだ」と答えるし……。
M  劣等生だった岩間陽子をサンフランシスコに連れていったら、「私の方がエスペラントは下手だけど友達はたくさんできた」と最後には自慢していたけど(笑)、それなりに急速に伸びたのは、向こうの講師は絶対に日本語で答えることなんかできないからなんですね。その単語の意味が分からないとこっちが云えば、向こうはエスペラント語で云い換えて説明しようとするでしょう。それでこっちも頭を使わなきゃいけなくなる。〝白い食べもの〟って〝まんじゅう〟かな、何かなって。文脈から判断すればやっぱり〝コメ〟だろう、と結論するまでの過程がすごく大切で、星田さんの教え方にはそこが抜けてることが、この30年ぐらい不満だったんです(笑)。
星田 エスペラント語で「キーオ・エスタス・リーゾ?(リーゾって何ですか?)」と訊かれたら「マンヂャージョ(食べもの)」とでも云うかもしれんが……。
M  そっちの方が教える側にとっても訓練になる。ぼくは「とにかく日本語を使わない」という教え方を心がけてますね。場合によっては英語を投入しても、日本語だけは使わずに考えることに慣れさせる。
星田 まあ実際には相手にもよるとは思うが、なかなか参考になる意見をありがとうございます(笑)。
M  いえ、いつでも相談してください(笑)。……ここで記録に残しておきたいのは、星田さん自身は、自分のリクルートの方法のどこがどう優れてると考えているかということなんです。
星田 それはよく分からないなあ。
M  どうして上手くいくんだと思いますか?
星田 実際に上手くいった例について1つ1つ云うことならできる。一番最初の五高時代、ほんの短い期間に10数人集めたのは、やりたいという人がまず1人いたから、寮の壁に「講習会をやります」というチラシを貼ったら、さらに何人か集まってくれた。私自身、熊本のエスペランチストのところに珍しい切手が貼られた手紙が世界じゅうから届いてるのを見て本格的にやる気になったという経緯があるから、自分で文通を始めた時もなるべくいい切手を貼ってもらうように相手に頼んで、それで送られてきた手紙を周囲にチラチラ見せると、やはり当時の学生たちにはそれが大いに魅力的に感じられたようだ。外国と文通すること自体がまだ珍しい時代だからね。苫小牧に移ってきた当時でもまだそういうところがあって、外国との個人どうしのやりとりを、魅力的なものとして提示できていたと思う。ところが最近ではもうそれは通用しなくなって、さてどうしたものかと迷っていて、何かいいアイデアがあればヒントをください。
M  それではご教示いたしましょう(笑)。1つには、今はエスペラントのプチ・ブームが来てるので、大学にビラを2百枚貼れば1人という程度の比率で反応はあります。とにかくそれで1人でも来たらまずマン・ツー・マンでみっちり教えて、その1人を起点にさらに拡げていける可能性はあると思います。もう1つは、「エスペラントをやりませんか?」って勧誘するのではなく、「ぼくと友達になりませんか?」と云うことですよ。それは星田さんも〝うたごえ〟でやったでしょ? 「合唱団に入りませんか?」というのは、「友達になりましょう」というニュアンスだったんじゃないですか?
星田 まあ、そうだな。
M  もちろん「ぼくはエスペランチストだよ」と云ってもいいんですけど、何よりもそれを云ってる人間自身に「この人は面白そうだ」と興味を持ってもらわなきゃいけないんです。あとは相手の関心に合わせて、国際交流に興味がありそうなら「外国人と話す機会もたくさんあるよ」と云えばいいし、左翼的な意識を持ってる人には「直接的な国際連帯の手段が必要じゃいか」と云えばいい(笑)。いくつかバージョンは用意しておいて、さらに「君は石狩に住んでるの? あそこにはまだエスペラント・サークルがないから、君が友達を誘って作ってみたら?」というふうに誘いをかけて、そうすればエスペラントを一方的に教わるという受動的な形から、自分でサークルを作るという能動的な形に関係性が変わる。
星田 石狩の彼はもともとそういう特質を持ってるような人だったしね。
M  いや、そういう特質を持った人を見極めて誘うんですよ(笑)。
外山 石狩の方に今、拡がりつつあるんですか?
M  まだビラの文案を練ったりしている段階で、具体的に動き出してはいないんだけどね。
外山 石狩というのは……。
M  隣りの街。ココからならバスで15分か20分ぐらいのところ。石狩だけでなく、この近くには他にも江別とか岩見沢とかいろいろあるんだから、どんどん作っていくようにしないと。
星田 江別と云えば、彼も最近は動きが見えないな。
M  MA君はコツコツやるのはちょっと苦手なタイプですよ。ここは「MA君」にしといてください(笑)。……とにかく重要なのは、その人にとってエスペラントがどう魅力的に感じられるだろうかと考えること。
星田 それは常にそう思ってるよ、
M  ぼくの中にはエスペラントとアナキズム運動があって、そのどちらかに取っかかりがあればとりあえず一緒にやっていけるだろうと思ってるんだ。星田さんの場合も、〝うたごえ〟とエスペラントの2つがあるということが実は重要だったんじゃないかと思うわけです。どちらか1つが行き詰まった場合も、もう1つの方で何か打開策が見えてくるようなことだってあるでしょう。
星田 今はもう当時の〝うたごえ〟のグループとは関わりもないけどね。参加してる合唱団は1つあるし、さらに2つも3つもかけ持ちして活動するのは結構しんどいことになる。10年20年前ならそういう元気もあったかもしれないけど……。
M  いや、星田さんは本来ならもうエスペラントもとっくに引退してる年齢ですよ(笑)。まだ現役で活動してることに、奥さんなんか不満タラタラじゃないんですか?
星田 エスペラントは年寄りをいたわらない人ばかりなのね、とは云ってる(笑)。
外山 いつ頃から星田さんが北海道のエスペラント・シーンの〝メインの人〟のような状況になったんですか?
星田 初めて北海道のエスペラントの会合に出たのは、こっちに来た53年の夏の小樽の大会。当時は山賀(勇)さんが会長だったかな。
M  星田さんがずっと苫小牧エスペラント会の会長ですよね?
星田 その当時はまだ苫小牧に会はできておらんけれども、正式に発足したのは60年だと思う。話してきたように、王子製紙の労組の青年婦人部の者を対象に講習会を始めたのは58年で、それがストで続けられなくなって、街の公民館で再開したわけだね。もちろん北海道エスペラント連盟にも、私はかなり早い段階で加盟はしておった。
M  連盟の会長になったのはいつですか?
星田 あれは88年だな。三沢(正博)さんが会長を辞めたので……。
M  いろいろと揉めたんですよね?
星田 結果的には三沢さんが追い出されたように見える。それでその後始末で、誰かが会長を引き受けるしかなくなって、三沢さんは「星田さんに頼む」と云うし、他にとくに異論もなかったので、私がやることになったんだが、しかしそれから20何年も会長を続けさせるというのは、これまた老人虐待だよね(笑)。毎年毎年、誰かに替わってほしいと云ってるのに……。
M  〝老害〟とか云われませんでしたか?
星田 その〝老害〟を作ったのはおまえらだ(笑)。
外山 今はどうなってるんですか?
星田 横山委員長。
M  1度は星田さんから交代して……。
星田 うん。数年前に1度交代したんだけど、何か都合でもう1年やってくれと云われて私がまた委員長になったことがある。
M  最終的に横山さんに交代したのがもう2、3年前ですよね。
星田 今は私は機関誌を担当してるだけ。
M  ……では午前中はこのくらいにして、午後からは世界エスペラント運動の展望について語りましょう。
小川 〝未来篇〟ですね(笑)。
星田 広げる風呂敷は持ってないよ(笑)。

 (食事中)
小川 安倍のポスターに落書きした70歳の男性が逮捕されたそうです。
M  うわー、エグいな。
星田 安倍って、晋三のこと?
小川 そうです。
M  次々と決起して安倍のポスターにいろいろ書きまくって、どんどん逮捕されて留置場を一杯にしてやったらどうだ?(笑)
小川 いいですね。
M  「ぼくも落書きしました。捕まえてください」って次々と自首するんだ(笑)。
星田 しかしそのポスターというのは……今は選挙はやっておらんだろ?
M  だから選挙違反ではなく器物損壊でしょう。
星田 そういうことになるのか。
M  それにしても、どういう意味なんだろうな。安倍がやらせてるのか、それとも警察が勝手にハネてるのか……。だってそんなニュース、捕まった奴より安倍の方がみっともないだろう、絶対(笑)。
小川 そうですよね。
M  ぼくも落書きしてこようかな。
星田 シールに何か書いてペタッと貼ったらどう? 文句を云われたら剥がす。
M  うーん……日和見主義を感じる(笑)。
星田 そうだな、日和見だ(笑)。
M  メンドくさくても、やっぱり「安倍死ね」って書かなきゃ。まず薄いビニールか何かを上に貼っといて、そこへ警官が見てる前でガーッと落書きしてやればいいんだな。そしたら誤認逮捕になるべ(笑)。
星田 警官が文句を云ったら剥がすの?
M  うん。
星田 器物は損壊しておらん、と。
外山 いや、2人で組むんですよ。1人が無事に捕まって連れて行かれるのを見届けてから、もう1人が剥がすんです。本人も取り調べで「オレは何もやってない」と否認する。現場に戻ってみたらたしかに落書きはないので、完全に誤認逮捕になります(笑)。
M  全国で何十人も誤認逮捕されたらカッコいいな(笑)。……その本は面白いだろ?
外山 (古賀徹『理性の暴力』14年1月・青灯社刊、をパラパラめくりながら)面白そうな気がして。
M  〝ほっけの会〟のメンバーだった奴なんだ。当時は北大生で、哲学科を出て学者になったんだけど、いまいち頭が悪いから、ぼくのことは嫌いなんだよ(笑)。
外山 あ、今は福岡にいるみたいですね。
M  そう? じゃあ会ってみたら? ぼくの友達だと知ったらイヤがるかもしれないけど(笑)。
外山 九大の准教授だと書いてある。
M  ……こないだの国会前で逮捕された諸君(9月16日に13名逮捕)は全員釈放されたそうだ。
小川 そうみたいですね。しかし釈放前日(9月24日)にガサを入れるっていう。
M  「りべるたん」(法政大ノンセクトから派生したシェアハウス。12年7月に神楽坂に開設され、13年1月の池袋に移転して現在に至る)の正体がよく分からないんで、調べたいんだろうな。ガサ入れても分かんないと思うけど(笑)。
小川 ガサの様子を写真で見たけど、ヒドいですよ。窓から土足で入ってきてた。
M  サイテー。
外山 せめて靴は脱げ、と(笑)。

  (食事休憩、終わり)

M  では最後のテーマ、世界エスペラント運動の展望について……〝遺言〟だと思っていろんなことを云ってください(笑)。
星田 ん?
M  まずエスペラント運動が抱える根本的な矛盾として、エスペラント運動そのものが非常に小さな言語コミュニティであるということ、それからエスペラントが〝世界の共通語〟たらんとすれば当然持たなければならない〝言語としての中立性〟の問題ですね。つまり、世界に開かれた言語であるというエスペラントの建前と、閉ざされた小さな言語コミュニティであるという現実との矛盾、そのあたりを痛感したことはありますか?
星田 それはもちろん大いに感ずるよ。いろんな人、多くの人がそう感じていて、こうすればいい、ああすればいいと考えてはいるんだろうけど、具体的な動きとしてはなかなか出て来ないし、出ているとしても見えてきにくい。〝言語としての中立性〟に関しては、とくに議論はないと思う。ただ文句だけ云うようなタイプの人が、中立といってもヨーロッパだけに偏っており、その他の地域の言語的要素は無視されておると云うし、そういう側面は実際そうなんだけれども、ヨーロッパ文明の中から出てきたものだし、当時の世界状況ではやむを得なかっただろう。ただしザメンホフは、それでも当時としてはかなり広い視野を持ってはいたと思う。〝第1書〟(ウヌーア・リーブロ。1887年発表)の中にも、あまり注目されることも少ない箇所ではあるが、「ヨーロッパで一般に使われている言語とは全然違う原理によってもこの言葉が組み立て得るように作った」とあって、実際そのように出来ていることも確かなんだ。彼の云うところによれば、言葉というものをまず最も基本的な概念にまで分けて、そこからさまざまな単語などを組み立てられるようにした、と。それは使ってみれば大いにそのとおりだと感ずるわけだ。非常に弾力性に富む作りになっておる。
M  ヨーロッパの言語学が分類したところの、膠着語的な要素もあるということでしょうかね?
星田 ヨーロッパの多くの言語(屈折語)とは異なって、むしろ膠着語に近いという言語学者もいるくらいだ。だからやはり膠着語である日本語を使っている日本人には理解しやすい部分もある。ただしそういう専門的な理屈を云ったところで、じゃあエスペラントをやってみようという人もあまりいないだろうと思う。……もう1つ、小さなコミュニティに綴じてしまっている現実というのは、おそらく日本だけのことではないだろうね。日本の特徴としては、戦前からの伝統として、エスペラントに限らず外国語の学習法が〝訳読式〟というか、テキストを読んで「これはこういう意味だね」とやっていくのが主流で、本当に〝使える言葉〟として身につけるにはそれでは限界があるということは、多くの人も云っているとおりだ。〝話して学ぶ〟という学習法も、日本でのエスペラントに関してもあちこちで試みられてはおるが、まだそれらが充分に効果を上げておるようには見えない。
M  〝言語の中立性〟ということとは一見矛盾しているように思われるかもしれないけど、〝中立〟であるがゆえにその言語をどのような目的に使用することもまた自由であるという発想から、さまざまなエスペラントの運動体が存在しているわけです。それはヨーロッパのSAT(サート。〝世界無民族性協会〟とか〝国民性なき全世界協会〟などと訳される、アナキズム的なエスペラント組織)のように、労働者階級の解放の武器としてエスペラントを使うということになったり、日本でも大本教(明治期に出口なお・出口王仁三郎によって創始された神道系の新興宗教)が布教のために活用した例が挙げられる。それらのさまざまな運動が、言語共同体としてのエスペラント運動総体と協力したり、あるいは軋轢を生んだりしてきた歴史がありますが、そのあたりについてはどう考えますか?
星田 〝軋轢〟というのは具体的には?
M  対立もあったし、警戒心、相互不信というようなことはたくさんあったでしょう。
星田 いろいろな傾向を持った個人や団体があれば、当然その中でさまざまな対立や軋轢も生まれるわけで、そのことと言語として広がりを持とうという方向性とがどう関係してくるのか……。もちろん関係はあるとは思うが、対立や軋轢が生まれる一方で協力関係も新しく生まれるんだし、軋轢やなんかが必ずしもマイナスにばかり作用するものでもないんじゃなかろうか。
M  さまざまな運動が競争し合うのはいいことでしょうが、例えばメンバーを奪い合うとか、あるいはイニシアチブを奪い合って、どこのイニシアチブならウチは協力しないとか、そういうこともたくさん起きましたよね。それはヨーロッパでも日本でもあったでしょ?
星田 あったことはあった。ただ現在の日本のエスペラント運動にはそういうさまざまな対立が表面化するほどのエネルギーさえないと思う。むしろそういうことが起きるぐらいになってくれた方が、むしろいいのになと私なんかは思ってますよ(笑)。今やそういう活力さえ失われてしまっていると思うんだが、その点はどうか?
外山 日本でも〝プロエス(プロレタリア・エスペラント運動)〟と〝中立派〟の対立は激しかった時期があるんですか?
M  うん、戦前にはね。戦後は、おそらく日本共産党の方針もあって、中立派のエスペラント運動の中にプロエス派も入り込んで、その総体を〝民主的運動〟として位置づけるような方向で共産党員たちも活動した。ヨーロッパのSATでは、それぞれの国というか言語共同体ごとにエスペラントを広めるためのリクルート組織が作られてるんだけど、日本のSATメンバーはそういうものを作ってないんだ。日本のSATメンバーは日本の各地の一般のエスペラント組織に入って活動してる。どうしてそういうことになったんでしょうね?
星田 私はSATについてよく知らないんだが、〝リクルート組織〟というのは?
M  LEA(レーア)のことです。
星田 ああ、SATの大衆組織であると認識しておる。
M  「ラボリスタトル・エスペラント・アソツィーオ」(労働者エスペラント協会)ですね。そこがエスペラントの普及と教育を担っていて、そこから希望者はSATのメンバーになっていく。SATはまったくエスペラントだけを使っていて、他の言語は一切使わないんだけど、SATのメンバーを獲得するためのそういうリクルート・コースがヨーロッパにはあるわけです。日本にはこれがない。日本だけなんです。
星田 それは日本のSATメンバーが努力しないからではないか?
M  そう思います?
星田 外から見ておれば、そうとしか思えない。
M  ウイリッヒ・リンス(『危険な言語 迫害のなかのエスペラント』75年・岩波新書の著者)なんかは、日本の中立派エスペランチストたちがSATに対して友好的であるために、SATの側もあえて自前のリクルート組織を持つ必要が痛感されなかったんだろうと分析してますね。
星田 そうだとすれば、日本にそのようなリクルート組織がないことにも問題はないと考える?
M  もちろんぼくはリンスの見解には違和感があって、日本の中立派エスペランチストたちがSATに対して〝友好的〟だったというより、SATが日本の中立派組織のために働いてきただけなんじゃないかと思うんです。〝労働者階級のため〟とかではなく……。
星田 だとしたらどういう結論になるの?
M  〝どうすべきか〟という前に、まずは現象をどのように捉えるかが大事なんですが、とりあえず現象をそう捉えた場合には、いくつかのやり方がある。1つにはもちろん、このままでいくという選択肢がある。SATはこれからも中立派組織のために働くっていうね。その過程で、多少なりとも左翼的・民主主義的な傾向をエスペラント運動総体に注入していく努力をするという、これまでの方針を踏襲するということです。もう1つの選択肢は、やはり日本のSATも自前のリクルート組織を作って、〝SATとしての活動〟を展開する、と。もちろん引き続き中立は組織の中で活動する人がいてもいいんだけど、左翼運動プロパーで働くエスペランチストの層を形成していく。さらにもう1つ、SATがそれほど中立派組織の中で活動することに意義を見出しているのなら、いっそSATの組織は日本には必要ないのではないか、という選択肢だってあります。つまり現状維持か、SATの独自性の確立か、それともSAT解消か、3つの選択肢があるわけですよ。
星田 SATと他の組織の関係について、私が理解しているのは一部でしかないとは思うんだが、まず日本の中立派組織がSATに対して友好的、少なくとも強い拒否感を持ってはいないのではないかという点が事実であるかどうか。細かい話はともかく、一般的にはそうであろうという感じを私も受ける。身近なところで具体的に考えると、見渡せば札幌のグループの中には一部、SATに対して拒否的な者もいるよね。数人だな。しかし一方で、今の北海道エスペラント連盟の委員長はSATに入ったんだろう?
M  そうです。
星田 ということはココ(M邸は「北海道自由エスペラント協会」の事務所も兼ねており、このグループは一時は「SAT札幌」を称していた)にも時折来ておるわけだよね。彼が現在は連盟委員長であるということで、連盟とSATとの関係はどのようになりつつあるのか、あるいはどうしようとしているのか、そこらへんの見解は?
M  横山さんはアイヌ語の普及運動をSATの組織を通じてやりたいんだと思うんです。それは世界を視野に入れた横山さんの展望で、もう1つ、ローカルな動機として、北大エスペラント研究会の若者たちと仲良くして、北大グループが独自性を持ちながらでも、北海道エスペラント連盟の活動の一部を担ってくれるようになってほしいと考えているんでしょう。
星田 それはそうだと思うが……既存のエスペラント組織の中から、あるいはエスペランチストを新しく育成して、SAT側にリクルートすることができる立場の人間が、ココに1人いると私は見ておるし、また実際そうしているとも見ておる。しかし現状ではまだ不充分で、さらに何かをしなければならんと考えておるらしい。そういうことなんじゃないの?
M  北海道エスペラント連盟とも協力関係は保ちながら、主要には左翼的な傾向を持った、それも若い人たちを中心にしたサークルのネットワークを北海道に作りたいとぼくは思ってます。もちろんその過程で、自分は政治的な運動には関わりたくないというメンバーも出てくるだろうから、そういう人には北海道エスペラント連盟に行っていただく、と。ゴミ箱みたいな位置づけですけど(笑)。
星田 ん?
M  だけどそれによって協力関係は成り立つでしょう(笑)。
星田 この人はずっと以前からそういう方向で考えていたはずだとは思うんだが、連盟の委員として活動してもらった時期もかなり長いし、連盟の図書や資料の大部分がココに置かれていた時期もある。ところがやがて、そういう状態はもう続けられない、図書や資料も持ち出せという要求がこちらから来て、かつ自分も連盟から脱退すると云った。私はそれを止めたはずだ。無役の委員としてでもいいから連盟にとどまって活動を続けられないかと提案したが、それも拒否された。そういう経緯があって現在の状況があるわけだが、あの時の選択はあれで良かったと今でも思う?
M  むしろ辞めるのが遅かったと思ってます。連盟の役員をやったのは……ぼくらが連盟の運営についてあれこれ云っていたら、「そんなことを云うなら自分がやってみろ」と前事務局長に云われて、引き受けるかどうか議論をしたんです。意見は真っ二つに割れて、ぼくは中間派だったんだけど、やってもいいんじゃないかという人もいるんなら、やってもいいかなと思って引き受けた。当時のぼくが抱いていたイメージは、何らかインパクトを与えて、つまり〝楽しい学習会〟〝楽しい行事〟〝楽しい大会〟なんかを一通りやってみせて、こういうふうにだってやれるんだと分かってもらった上で撤退するというものだったんですよ。しかし撤退のチャンスを逃してズルズルと続けてしまった。そのうちぼくらのメンバーの中から、ぼくに云わせれば〝裏切り〟があって、その人が新しい事務局長になったわけだけど、その〝裏切り〟を奇貨として、ぼくは本来やりたかった活動、例えば若い諸君といろいろやるとかって方向に復帰する。政治的な偏向に注意しながら慎重に発言しなきゃいけないような立場から離れて、云いたいことははっきり云う、革命がやりたいんなら「革命がやりたい」とはっきり云うってことですね。
星田 そういうことであれば、双方ともが相手の意図や考えの分からないままに、それぞれ独自の行動をとったというふうに見える。過去のことについて、あれがダメだった、これがダメだったと云っても仕方ないが……。
外山 日本のエスペラント運動全体の中で、SATはどの程度の存在感を持ってるんですか?
M  一大派閥。日本のエスペラント人口が1万人だとすれば……実際にはぼくは3千人だと見てるけど、そのうち百人がSAT。
外山 1万人だとしても1%、実際にはおそらく3千人で、数%を占めてる、と。
M  だから決して少ないわけではないんだけど、現実には何ら行動綱領を持っていないし、SATメンバーであることが自分の〝良心の証〟であるという程度のことだったり、せいぜいSATからの通信を読んでいたりするだけで、活動としては極めて低い水準にとどまっていると云っていいと思う。ただ日本のエスペラントのいわゆる中立運動の地方組織なり全国組織なりの幹部に、SATメンバーが何人か含まれていたりするのも普通だったりする。
星田 北海道のSATとしては、現時点でどういう目標なり行動方針を持ってやっていくつもりなのか。連盟そのものは、一般的なエスペラント運動というか、それを〝中立〟運動と呼ぼうと呼ぶまいとどっちでもいいんだが、エスペラントでこんなことができるというのを一般の人に知ってもらって、とにかく広めようということなので、SATとしても、エスペランチストを増やして仲間にしようということなんだから、とくに齟齬が生じるわけでもないだろう。目標なんかに色合いの違いが多少あることは分かるけれどもね。
M  要はやりたいことをやれるかどうかなんです。とくに若い諸君を抱えてると、「ここは将来のことを考えて、ひとつ〝付き合い〟だと思って……」なんて云い草は通用しないから(笑)。若い奴はその場その場が面白くなければすぐに辞めていっちゃう。現実問題としては、まあ〝3回に1回は面白い〟ぐらいの頻度で面白くなきゃダメなんですよ。
星田 昨年のザメンホフ祭については、計画・運営とも事実上すべて彼(M)に任されておったはずだが、そこで〝面白いこと〟はできたと考えているのかどうかについては?
M  あの時は〝面白いこと〟というより、上映会を盛大にやりたいということで、それを実現することが獲得目標だった。
星田 ではそれは実現できたわけですね。
M  そうです。
星田 今年やるとすればどういうことを考える?
M  今年はザメンホフ祭に関しては何も計画はありません。
星田 それは、やる気はないということ?
M  今のところは。もちろん横山さんあたりから、「こんなことをやりたいんだけど」と何かヒソヒソ話があって、面白そうだと思えばやるかもしれませんが(笑)。
外山 昨年は何を上映したんですか?
M  SAT制作の『エスペラント』というドキュメンタリー。これはぼくらが見てもそれなりに質の高い映像作品だということもあったけど、観た人がそれを利用してさらに仲間を広げていくこともできるんじゃないかとも思ったんだ。ただ宣伝の仕方を間違えて、もうちょっと早い時期から大々的に、例えばぼくの昔からの友人でエスペラントにも興味は持ってるような、中核派のシンパの人とかいろいろいるから、そういう人たちを全部大動員すればもっと面白くなっただろうとは思う。エスペランチストの参加者が10人いたとしたら、エスペラントに興味はあるが実際にやってるわけではない人が40人とかって感じの上映会にしようと思えばできたはずなんだ。
外山 実際にそうやって拡げるしかないですよね。イベントの内容がSAT寄りのものであろうとなかろうと、エスペラントをすでにやってる人たちよりそうでない人たちの方が多いぐらいにすることを考えないと、拡げていくにもそのきっかけさえできないでしょう。
星田 今年のザメンホフ祭をどうするかはひとまず措いて、いずれにせよ今後そういう方向でやっていくことが可能であれば、それはなかなか結構なことだと思うが……。
M  札幌の中立系エスペランチストたちの大きな弱点だとぼくが思うのは……いや、札幌だけでなくこれは全国共通だと思うんですが、口コミで拡げようとしないことですよ。自分がエスペラントの集まりに足を運ぶというのも〝枯れ木も山のにぎわい〟ではあるけど、自分だけではなく周りの他の人を、あの人ならもしかしたら面白がってくれるかもしれないとか、あの人はピンと来ないかもしれないけど一応声だけでもかけてみようかとか、そういう活動は中立系の人たちにはまったく期待できないんです。もし協同してやっていくとすれば、双方で口コミの重要性を確認した上でないと意味がない。
星田 なるべく話を広めていこうということは最近は連盟でも云われていて、そうでないと発展はありえないからね。
M  もしもぼくが今、北海道エスペラント連盟の幹部だったら、1万円ぐらい謝礼を払ってユウジ君に講演をやってもらう。
星田 具体的な話が出てきたな。
M  日系ブラジル人の青年に、サンパウロの生活と札幌の生活を比較して語ってもらうようなね。それをエスペラントで話してもらうんだ。たぶんユウジ君は連盟の会員ではないはずなので、謝礼を払って、その代わり何日も準備して講演原稿を練ってもらって……ということをぼくなら考えます。
星田 それはエスペラント運動の中での行事として?
M  ユウジ君にはエスペラントで講演してもらうとしても、日本語の通訳をつけたっていいんです。そしたら、ユウジ君の友人の学生はたくさんいるだろうし、ユウジ君が講演をする、通訳もつくからエスペラントが分からなくても大丈夫らしい、となれば彼らも聞きに来ると思うんです。そうなればぼくも周りの学生諸君を誘える。ユウジ君の話には興味がなくても(笑)、他にも学生がたくさん来るんなら行く気になるかもしれない。
星田 それが人を集めるのに有効であれば、そういう機会を設けてもいいように思う。
M  普通のエスペランチストの外国人に講演してもらうのとユウジ君とで何が違うかというと、彼は研修生として日本に来てるわけです。それは欧米人が旅行で来日しましたというのとはワケが違って、移民問題・民族問題を抱えながらの日本滞在なので、彼が置かれた状況について話を聞くのは、社会的な意味も大きいでしょう。
星田 趣旨は理解できるが、今のような云い方ではちょっとまだ堅すぎて、一般の人を誘うのには難しい気がするね。この場ではそれでいいが、もし実際にやるとなったら、一般向けにはどういう云い方をする?
外山 とりあえず連盟の内部向けには興味は持ってもらいやすそうですけど……つまりエスペラントをやってるんだけど、北海道エスペラント連盟の会員ではない外国人が日本に住んでるということでしょうから、彼の話を聞いてみませんか、と。
星田 現時点では客人のような存在だけど、連盟の行事にはよく来ていますよ。
外山 じゃああんまり新味はないか(笑)。
M  ……SATというのは本来、単なる言語コミュニティではなく、機能的な集団であるはずなんです。
星田 まあ〝運動体〟だな。
M  しかし日本ではSATも言語コミュニティのようなものになってしまっている。ぼくらはもっと機能的なものとしてSATなり、SAT的な集団を組織できればいいと思っているわけです。……昨日か一昨日、雑談の中で出たんだったか、エスペラント運動はどういう時に拡大するのかという話、あれを星田さんに再度話してほしいんですが。
星田 日本が世界に向けて何か開かれていくような予感のある時と云いますか、そういう感覚が社会に広く共有している時にエスペラント運動は伸びたんです。逆にそういう雰囲気が閉ざされると萎んでいく。
M  大正時代に西洋文化がとくにインテリゲンチャの中にどっと流入した時に、同時にエスペラント運動も入ってきて、必ずしも大衆的に拡大したわけではないだろうけど、少なくともインテリゲンチャの間で爆発的に流行したわけですよね。
星田 インテリばかりではない時期もあるよ。札幌での講習会に2、3百人が集まったこともあると聞く。一次大戦後のことかな、すでに札幌でエスペラントをやってた人たちも驚いたみたいだ。今の状況で、どうすればまたそのようなことを実現できるのか……。
M  ぼくは無理に実現する必要もないと思うんです。細々とやるのはどうですか?(笑)
星田 現に細々とやっておるわけだ(笑)。
M  ただ〝細々〟であってもそれが楽しければいいということなんですよ。楽しいというか、ワクワクできればいい。その〝ワクワク〟というのは、北海道で考えるなら1つには例えば、横山さんがやっているように、アイヌ民族の文化や言語を使ったり広げたりとかってことでもいいし、実際に北海道エスペラント連盟は「アイナイ・ユカーロイ」(アイヌ神謡集のエスペラント訳)を刊行したりして蓄積もありますよね。あるいはロシアですよ。ロシアとの交流を系統的におこなうこと。これにはお金も時間もかかるだろうけど、メリットも大きいと思います。
星田 何かワクワクするものが必要だというのはまったく同感で、もはや伝説化してるような一次大戦後の札幌での講習会というのも、やはり当時の人々がエスペラントに対して、日本が世界に向けて開けてゆくようなワクワクする感覚と相通じるものを感じたからこそ、それだけの人数が集まったんだろう。アイヌ関係の話が出たけれども、今そういうことでワクワクしてくれる人がどれほどいるかということについては私は悲観的だな。ロシアについては、たしかに我々はこのところ、やるべきことを充分にやっていないんだ。現時点で連絡がついているのは、ウラジオストクのグループとハバロフスクの数名だね。ハバロフスクの方はもう1人だけになってしまってるが、連盟の機関誌にもよく書いてくれて、向こうの詩人の紹介などをしてくれているのは、まあいいことだとは思う。ただエスペラントの中であれ外であれ、あまり反応が見えないのが残念ではあるね。いずれにせよ、すぐ隣りにあるロシアとの関係が、ちょっとしか築けていないというのはエスペラント運動として異常というか、やるべきことをやれていないということでしょう。とくにサハリンのグループと連絡がついていないという現状は何とかしなければならん。
外山 サハリンにも〝おそらく〟いるということですか?
M  少なくとも個人的にやっている人はまず間違いなくいる。ウラジオストクのグループが何度も連絡をつけることを試みたんだけど、ついに返信がなかったということを10年ぐらい前に聞いてるんだ。
星田 ウラジオストクからサハリンの方へ渡ったワレリーという人がいるよね。
M  彼はカムチャツカじゃなかったかな。
星田 カムチャツカやサハリンを行ったり来たりという仕事をしているはずで、時々ひょいと私のところにメールが来ることがある。
M  ワレリーは優秀なエスペランチストですよ。
星田 たしかにそうだ。
M  小林多喜二の小説で「倶知安行」だったか、題名は正確に覚えてないんだけど、短編小説があって、労農党の選挙運動で、真冬に馬ゾリで倶知安あたりの村々を回る話なんです。
星田 「東倶知安行」(28年執筆・30年発表)じゃないか?
M  そうだったかも。とにかくあのイメージで、サハリンへ行こう(笑)。もしここ2、3年のうちに具体化できるなら、北大生数名を連れて、あと現地に北大に留学してたロシア人がいるんで、そいつを低賃金で通訳に雇ってさ(笑)。で、まず先遣隊が行って、新聞社なんかと接触する。新聞社は絶対に飛びつくよ。北海道というすぐ隣りの島から日本人の青年たちがやって来て、エスペラントという……。
外山 謎の言語を話す青年たちが(笑)。
M  いっそ新聞広告を打ってもいいし、公民館みたいなところにエスペラントに興味を持ったロシア人たちに集まってもらって……。
外山 サハリン各地を馬ゾリで回る(笑)。
M  街を3つ4つぐらい回って、帰ってくればいい。もちろんこれにはすごい予算がかかる。まず宿泊費がバカにならないだろうしね。だけどやるなら今のうちだと思うよ。
星田 今?(笑)
M  準備は今からでもやっとかないと、さあ準備ができましたという段になって北大生が界隈に1人もいません、ってことにもなりかねない。……年に1回とか2年に1回とか、サハリンで合宿をやるぞ、ということになれば小川君もエスペラント研究会に参加するだろ?(笑) あんまり政治的なことは抜きにして、とにかくロシア人と仲良くしてくればいいんだよと云ったら、行きたくならない?
小川 それはたしかに行ってみたいかもしれませんね。エスペラントの勉強をちょっと我慢すればいいんでしょう?(笑)
M  ぼくらは以前から〝北海道宣伝隊〟というのは考えてたんだけど、それじゃあまりワクワクしないんです。それでも試しに日帰りでも行ける近場の石狩、江別あたりでまずやってみてもいいんだけどさ。
外山 それこそ「劇団どくんご」が北海道は6、7ヶ所開拓していて、北海道じゅうのヘンテコな人たちのネットワークはすでにできてるはずですよ。
M  それなら付いて回ったっていいね。
外山 今年は休業してるけど、来年はまたツアーをやりますし。
M  「どくんご」に付いて回って、打ち上げでビラをまいて……。
星田 ストラングーロ・グルーポ(変人の集団)?
M  劇団なんです。テント劇団。……とにかくこんなふうに話してればアイデアはどんどん出てくるんですって。
星田 いくら出てきても泡と消えるようなものばかりではダメだよ(笑)。
M  それでも出てくるのと出てこないのでは雲泥の差なんです(笑)。
星田 それはたしかにそうだ。まあ、やれそうなものはさらに調べて検討しなければならん。
M  ぼくが分からないのは、札幌エスペラント会なんかをコツコツやってる人たちが、どういうことにワクワクするのかってことです。見当がつかない。
星田 なるほど。
M  この人たちは何が楽しくて生きてるんだろうかと(笑)。
星田 そりゃあ続けている以上は何かあるんでしょうけどね。私も札幌エスペラント会の集まりには何年も出てないし、ザメンホフ祭やなんかの時に顔を見るだけという人が多い。
M  お年寄りが多いし、そんなに無理もできないというのは分かるんだけど……。〝サハリン・オルグ団〟の後は、今度は〝北方領土・ビザあり交流団〟の遠大な計画へとつながっていくんです。クソ外務省に徹底的に嫌がらせをする。
外山 なるほど。ビザがあれば北方領土には渡れるんですね。だけど北方領土は〝外国〟ではないという立場を守らなければならない外務省としては、そういうことはやってほしくないってことか(日本政府は89年に国民に対して〝自粛〟を求めており、〝ビザあり渡航〟は行政指導の対象とはなるが、とくに罰則等はないようだ)。
M  エスペラント大会とか、何か催しをやる時に外務省の後援をもらいに行くんですよ。断られたら、「ふーん、また〝ビザあり交流〟に行っちゃおっかなー」って聞こえるように云う(笑)。「評判良かったしなー」とかって。……星田さんの今の1番の関心事は何ですか?
星田 エスペラントに関して云えば、ずっと云っているように、どうすればもっと広められるかということだよ。すぐに答えの出るものではないし、私だけが頭を悩ませてることでもないと思うが。
M  人を集めるというのは、武装蜂起でも何でも同じで、あらかじめ予測のつかないことが多いんです。
外山 北大のエスペラント研究会は今、何人ぐらいなんですか?
M  4、5人いる。
外山 熊本大学の準君は、昨年だったか、初めて会った時点では1人で「熊大アナキズム研究会」を名乗っていたんですよ。しばらくして、「〝アナキズム研究会〟ではどうも人が集まらないので、〝エスペラント研究会〟にします」って云い出して、それはもっと集まらないだろうと思ったんだけど(笑)、それから2、3ヶ月で「12人になりました」とか云ってて……。毎週集まって、意外と地道に勉強をしているみたいです。
星田 近く東京に行くから、東京にいる熊大エスペラント研究会のかつてのメンバーにも会ってみたいと云ってた。彼はいろいろ動いてるね。
M  星田さんが一番最近、エスペラントに誘って定着した人ってどういう人になりますか?
星田 先日消えてしまったけど、結婚したら続けられなくなると思いますと云ってて、実際そのとおりになった女性が一番最近ってことになるか。
外山 何歳ぐらいの人ですか?
星田 30ぐらいだと思う。
外山 誘ったのはいつ頃ですか?
星田 2年ぐらい前かな。
M  これまで誘った人を全部合わせると百人とかにはなるでしょう?
星田 講習会に参加してエスペラントに少しでも触れたという人まで合わせたら、何百人という単位になるでしょうね。長く続いた人はやっぱり少ない。それでも「おや?」と思うことも時々あって、例えば五高時代か九大時代かに、たしかに私の講習会に来ておった名前が、長崎のエスペラント会の名簿にあるのを見つけたりする。連絡はないからもう消えたかと思っていたが、どこかで続けてくれていたとすれば大いに結構なことだ。
M  昨日、今日と星田さんのお話を伺ってきましたが、星田さんの講習を受けるよりずっと面白かったんじゃないかと思います(笑)。おそらく飲み会がほとんどなくなって、雑談でその人の持っている歴史だとか、ものの考え方について聞く機会がなくなってしまったというのが、ここ何年間かの過程だという気がするんですよ。
星田 苫小牧では、年に1度のザメンホフ祭の時に、もちろんザメンホフ祭そのものは公共施設を借りて儀式的にやるけど、報告とか今後の方針とか、そんなものは1時間もかからずに終わってしまうから、その後は場所を変えて飲み会になる。まあそれは忘年会を兼ねてるね。新年会も私の家で何度かやってる。それは面白い時もあるにはあるが、たしかに昔に比べたらそうでもなくなってるような気もするなあ。かつてはなぜ面白かったのか、考えてみる必要はありそうだ。まあ皆さん、年をとるとだんだん面白くなくなってくるというか(笑)、活気がなくなってるということはある。
M  やっぱりいろんな〝ウラ話〟を聞いたり、歴史的な経緯を聞いたりするのが楽しいし、あるいはこんなことを考えてる人だったのかとか、こういう仕事をしてるとは知らなかったとかって驚くのも面白い。ぼくは連盟の事務局にいた時に、〝積極的中立主義〟を掲げていて、それは何かと云うと、〝エスペラントに関係のない話でも、エスペランチストがやっていることは全部もう連盟の機関誌なんかに載せていい〟ってことなんです(笑)。それが右であれ左であれ、議論の対象にしてもいいって方針だったんだけど、それを具体化するにあたって段取りをうまくやらなかったもんだから、多くの反発を食らってしまったという反省はあるんですけど、基本方針としては間違ってはいなかったと今でも思っていて、〝人間ナントカさん〟がエスペラントをやってるんだってことを前面に打ち出していけば、絶対に面白くなったはずなんです。
星田 それは例えばこういうものが面白いという具体例はあるの?
M  いや、具体例も何も、例えば中立系であるはずの北海道エスペラント連盟の機関誌なのに、「先日〝反安保法制のデモに参加したんですが、若い人をチヤホヤする傾向にはちょっとムッときました〟とか(笑)、そういう本音の文章が載ってると面白いじゃないですか。
外山 〝安保法制賛成〟の人の意見も載ってたりしてね。
M  もちろんそういうのも出てきたら載せる。互いを誹謗中傷さえしなければ何でも載せるっていう。
外山 〝エスペラントをやってる〟もしくは〝エスペラントに興味がある〟ということだけが共通点。
M  そうそう。ぼくはそういうことをやりたかったんだけど、失敗したんです。
星田 失敗とは?
M  MA君の文章を載せて失敗したんです。
星田 ああ、あれか。
M  編集方針についてコンセンサスがまだできてない状況で、いきなりポンと載せちゃったもんだから、「これは右翼の案内じゃないか」って反発された。
星田 たしかにそういう異議を出す人もいたな。
M  それはぼくの段取りが悪かったんです。ただ中身に関しては今でも、例えば北大エス研なんかを中心とした、ぼくらSAT系のグループでは、そいつが左翼でなくても、集まりに顔を出して面白いことを云うんだったら、もちろんエスペラントもやってる奴だったら、誰でもいいと思ってる。そいつが左翼系のグループのメンバーになるのがどうしてもイヤだと云うなら、別のグループを作ってくれてもいいし……。あの時はそういう面白い方向に舵を切れるチャンスではあったんだ。せっかく右翼のエスペランチストが登場して、そういう人はやっぱり珍しいんだよ。
外山 あ、そういう人が最近いるって当時聞いたような気がする。
M  だけど最初のところで失敗しちゃった。
星田 そういう経緯は私も了解してるけど、仮にそんなふうにいろんなものが載るようになれば面白くなるのかと云えば、そこらへんは私には疑問もあるが……。
M  歴史的経緯を見ると、みんながそんなふうにそれぞれの関心に基づいて喋り出すと、軋轢を生んだりケンカになったりすることの方が多かったんじゃないですか?
星田 そのへんはよく知らない。たしかにさっきから話してるケースでは軋轢が生まれて、こんなところにはもういたくないという人たちが出て行くという結果になったけど……。
M  各自がやってることや思ってることを、それらがとくにエスペラントと直接関係あろうがなかろうが、それぞれのキャパシティで共有していくという方向が面白いとぼくは考えてるんだけど、それは理想論でもあって、それをやっちゃうと対立や軋轢が生まれるから回避してるという、〝集団の知恵〟みたいなものが働いた結果として今こうなってるという気もするんです。
星田 それはある程度はあるでしょうね。
M  だけどそういう〝知恵〟は、いろいろ出し合った上で紛争を回避するという方向で活かしてほしい。
星田 あまり控え目にせず、もう少し正直に本音を出してみてはどうか、ということだね。
M  そうすれば多少なりともワクワクしたり面白かったりする場面も増えるんじゃないかと。
星田 ワクワクすることも増えるだろうが、「この野郎!」と思う場面も増えそうだな(笑)。
M  それが人生じゃないですか(笑)。人が増えるということを一種の〝財〟と考えて、喜べるかどうかですよ。単なる頭数として見るのではなく、その人が持っているさまざまな可能性まで含めて全部こっちに来たんだと考えることができたら、人を誘うことがもっと面白くなってくるでしょう。〝この人はエスペラントを勉強している学生だからちょっと大切にしてやろう〟というのではなくて、〝この人は何かヘンな学生だからエスペラントを通じて仲良くなりながらいろいろ引き出してやろう〟というようなね(笑)。そっちの方が楽しいじゃないですか。
星田 ……最近、札幌のエスペラント会に2人、新しく入ってきた人がいて、2人ともなかなか立派なエスペラントの文章を書けるんだ。そんな人がこっちが知らないところにまだ隠れておったことにビックリした。忙しい人も多いし、エスペラントに興味があって、場合によっては独学である程度までやってるという人も、この調子なら他にもまだいるんじゃないかという気もしてくる。
M  まともに宣伝すれば人口の1%とか0・5%とかは興味を持ってくれるかもしれませんしね。
星田 1%にでもなれば大したもんだ。
外山 札幌都市圏だと1万人、2万になるのかな?
星田 数万の単位になるね。
M  じゃあ、星田さんの目の黒いうちに……。
外山 〝札幌1万人のエスペランチスト〟を(笑)。
M  それで緑星旗(エスペラントのシンボル)を掲げてデモ行進するんだ(笑)。それで星田さんの家の前まで行って〝ハイル・ヒトラー!〟みたいにやる(笑)。
星田 緑星旗を掲げたデモ行進は、こないだの夏の世界大会でやってたよ。第1回の世界大会をやってザメンホフが演説した街。ブローニュ=シュル=メール(フランス北部)だ。何百人来てたかな。ザメンホフ像のある駅前から、市役所まで歩いたんだったか……出発地は第1回大会をやった例の劇場だったな。その同じ劇場で、第1回大会から百十周年の記念式典をやった。
外山 その〝ゆかりの地〟ではやっぱりエスペラントは盛んなんですか?
星田 いることはいる。市役所の屋上にも、その日は緑星旗が掲げられておった。
M  しかしUEA(ウー・エー・アー。世界エスペラント協会)の大会運営には、非常に政治的なものを感じますよ。ノーベル平和賞って政治的でしょ? それと同じようなニュアンスで〝政治的〟だと感じる。大会の開催地にしても、アジアではまだ開催が少ないから今度はここでやろうとか、もっと典型的なのは、まだアメリカと国交がなかったキューバで……。
星田 2回もやってますよ。
M  うん、わざとやるんだ(笑)。で、会場で世界中から集まった3千人ぐらいで宴会をやってるところにカストロが現れるという、胸にグッとくるような演出があったりする(笑)。それはかなり政治的にやってることだし、そういうところはうらやましいと思う。逆にSATの大会の方はそうではないんじゃないかと思うんですよ。
星田 そっちには行ったことがない。
M  ぼくも行ったことはないんです。ただ、「SATの大会をメキシコのサパティスタの解放区でやりましょうよ」って手紙を1度、SATの本部に書き送ったことがあるんだ。「この提案を機関誌にも載せてくれ」と付け加えたんだけど、ボツになった(笑)。しかし〝労働者階級の解放のためにエスペラントを使う〟と云ってるんだから……。
星田 それがSATの綱領だもんね。
外山 メンバーの平均値としては、サパティスタにシンパシーを持ってはいるんじゃないですか?
M  そうだと思う。だけどたぶん物理的に無理なんだろうね。仮にサパティスタの解放区で開催したとしても、10人か20人しか集まらなかったのでは〝大会〟にならない。そもそもSATの大会はヨーロッパの外で開催されたことがないんだ。
外山 そっちはどれぐらいの人数が集まるんですか?
M  3百人から5百人。まあサパティスタの解放区で開催することも絶対に不可能ということもないはずなんだけどね。本来ならやっぱり、現におこなわれている闘争の現場とか、過去の闘争にちなんだ場所とか、そういうところで開催する方がいいんだ。
外山 ヨーロッパからしばらく出ないとしても、いくらでもそういう場所はあるでしょうからね。
M  ぼくもSATの機関誌をしっかり読んでるわけでもないから、もしかしたらそれなりにやってるのかもしれないけど、少なくともUEAの方はそういうことをやってる。
星田 UEAはいわゆる中立的なエスペラント団体と見られてるけど、やってる内容を見ていれば決して没政治的ではない。充分いろいろ考えてる。今年の大会で印象的だったのは、黒人がかなり多いことで、アフリカから来てる人も結構いた。そもそもフランスに黒人はたくさんいるんだけどね。かつてはアフリカに植民地を持っておって、それらが独立した時も旧宗主国であるフランスへの移住については優先的に認められるようにしたから、結果としてフランスの現在のイスラム人口も3%ぐらいになってたりする。それで近年はいろいろ難しい問題も生じておるようだが、ともかくアフリカから来たエスペランチストたちは、いつかアフリカでも世界大会をやりたいと云っておったね。
M  北海道大会だってそんなふうに政治的にやれればいいと思ってたんですよ。
星田 サハリンかウラジオストクか、向こうの人たちと共同で何か開催できればいいな、とは私も思う。
M  大会の開催地にしても政治的な意味を持たせて、それについてある程度は全体で共有することができれば、普段の会議だって面白くなるんじゃないかと思うんですけどね。
外山 ……北大以外の北海道の大学にも拡げていく手段はないんですか?
星田 昔は教育大にもグループが存在した時期はある。
M  印象では、学内の管理が強くなってるんで、それでもビラを貼ってそれをうまく生き残らせる方法を確立すれば充分に獲得の可能性はあると思う。大学の数だけは札幌はやたら多いんだ。道内各地から札幌に初めて出てきて、アパート暮らしをしながらコツコツ大学に通ってる奴はたくさんいるはずなんで、札幌にずっと住んでる奴らよりずっと〝狙い目〟ではある(笑)。
外山 教育大ってかなり田舎の方にあるでしょ? あの周辺のアパートに住んでる学生もいっぱいいるんじゃないですか?
M  そうかもね。
外山 ビラを大量に刷ってポスティングすれば、学内の管理とは無関係に突破できるんじゃないかな。
星田 内容は講習会の案内とか、ごく基本的な情報ってこと?
M  「エスペラントを勉強してみませんか?」で、メールアドレスが載ってるだけのものでもいいんです。
外山 あるいは昔から学生運動ではよくやってたように、誰か理解のある先生を見つけて、その人の授業の最初の5分間ぐらいを借りて、エスペラントについて喋らせてもらってビラも配るとか。
M  なるほどね。でも今の北大エスペラント研究会の連中にはそれをやる根性はないだろうな(笑)。昨夜もここに2人来てたけど、彼らは非常に真面目でしょ? まだまだこれからだから。
外山 〝これからに期待〟の人たち?
M  彼らはこれから羽ばたくんだよ。まだヒナだ(笑)。……星田さんは今後、まあ何年間ぐらい残ってるのか知りませんけど(笑)、一番やりたいことって何ですか? まあ逆に〝やりたくないこと〟でもいいですが。
星田 まず自分のことで云うと、やりかけの仕事はたくさんあるので、総括・整理をしなきゃならんとは思ってる。どこまでやれるかは分からん。対外的なことでは、やはりエスペラント運動の現状は、エスペラントの本来の使命を果たせてるとはとても云えないんで、皆さんの知恵も借りて何とかできないものかと、それはさっきから何度も云ってることだ。
M  これは失敗したなあ、と思うことは何ですか?
星田 失敗もいろいろあったとは思うが……そのことをあまりクヨクヨと考えたりはしないな。失敗したら、「あー、しょうがない」って済ませてしまう。
M  それが長生きの秘訣ですか?
外山 悩まない!(笑)
星田 そうかもしらん。あまり引きずっても仕方ないしね。
外山 ……ところで小川君はエスペラントはまったくやってないの?
M  文法は全部終わった。
小川 ……。
外山 チュ・ヴィ・ポーヴァス・パローリ・エスペラントン?(笑)
小川 ミ・ネ・ポーヴァス。
M  会話としてちょっとおかしいな。相手が「エンペラントを話せますか?」ってエスペラントで訊いてきたのに、「いいえ、できません」とエスペラントで答えるのはおかしいだろう(笑)。そういう時は「イオメーテ」と云うんだ。
外山 英語の「リトル」かな?
M  うん、「少しばかり」ってことだね。
外山 そういうふうに答えるのが、ほんとにエスペラントができなさそうな、〝自然なエスペラント〟なのか(笑)。
星田 ミ・パローラス・イオメーテ。
山本 パロー……。
M  「パローリ」が「喋る、話す」だね。
山本 フランス語っぽい。
外山 動詞をイ行で、つまりiで終わらせると英語のto不定詞、あるいは原形不定詞と同じことになる。「ポーヴァス」が英語の「キャン」で、語尾がasで終わってると動詞でも助動詞でも現在形。つまり「ポーヴァス・パローリ」で「キャン・スピーク」だね。
山本 なるほど。
星田 ……さて、それではザメンホフ祭のあたりで何か上映会を計画するか? とりあえず計画だけ建ててみて、実現すれば結構というぐらいの気持ちで。
M  星田さんは実学派だから、すぐ実行可能なことを考え始めるんだ。
星田 そりゃあ実行可能なことを考えないと……。
外山 夢みたいな話はどうでもいい!(笑)
M  すぐ回路設計を始めちゃう(笑)。……じゃあそろそろ星田さん、最後に何か云い遺して置きたいことは?(笑)
星田 ん? じゃあ、「ファルトゥ・ボーネ・チーウイ。カイ・ヴィーグレ・エストゥ・ヴィーグライ・エン・エスペラント!」とでも云っておくか。
M  えーと……皆さん、健康に気をつけてお過ごしください。そしてエスペラント運動を活発に展開してください。はい、じゃあ星田さん、どうもありがとうございました。ご苦労様でした。
山本 わーい!(拍手)