同族(ウタリ)の立場から


バチェラー八重子


京阪地方を始め九州の果てにまで住んでゐたといふ昔の事はさて置き、我が北海道のウタリの事に就てお話し致します。

北海道のウタリは全島至る所の目ぼしい土地に住んでゐました。当時は、海にも山にも無尽の天然資源が恵まれてゐた、鬱蒼(うつさう)とした大原始林の中に家を建て、雪の降る寒い日でも、手を伸(のば)しさヘすれば薪(まき)は自由に庭先きで、幾何程でも得る事が出来ました。

林の中には鳥や獣が無数に群棲してゐたし、川には魚類が溢れる程ゐました。それらはすべて、特別の努力を要しないで自由に吾々の食膳に上ったのです。食後にお鍋を川へ洗ひに行きますと、大きな鮭が二三尾もその中に這(は)入って来たなど云ふ話もそんなに遠い昔の事ではありません。

かういふ長閑な国に住つた吾々ウタリの祖先は、優美に縫(ぬ)ひとりした衣服を纏(まと)ひ、あり余る薪を焚いて寒さを忘れ、新鮮な魚や肉を満喫して何不日良なく悠々と生活してゐたのでした。

斯(かか)る恵み多い生活を、吾々は感謝で暮し、いつまでも此の平和が続きますやうにと祈りながら神と家族のために立働らきました。

此の平和が乱され始めたのは丁度今から五百年前、蝦夷ケ島の殿様武田信広公が内地から渡って本島を治められるやうになってからです。内地では余り褒められない様な、持てあましの人々が段々本道に入り込んで来ました。

その人達は、蝦夷ケ島は熊や鹿ばかり住んでゐる国と思ってゐたのに、来て見ると意外に良い国であり、然も沢山の宝のある事を知って、野心を燃したのでした。

彼等は来ると早々、他に頼る人もないので、酋長よ、オテナよと盛んにウタリの機嫌を取り、イヨルングル(身寄せ人)又はウツス(使傭人)等になって、足場を固め、様子を窺つてゐました。

人のよいウタリ達は和人(シャモ)は親切な御方と思ひ、宿を貸し、品物を交換し、親切に交際してゐるうちに、シャモ達はウタリの親切を見事裏切って、品物は胡魔化し果ては家宝財産までも何時の間にか欺し取って仕舞ひました。

ウタリの眼の醒めた頃には家も財産もシヤモの所有となってゐますので、ウタリの怒り一方(ひとかた)でなく、ウタリとモシリ(国)を護らんがために、幾度となくシャモを相手に戦ひました。


ウタリの祖先コサマインは、槍山後島(ひのきやまごたう)にあって、十四の館(たち)を十二迄も攻め落し、松前の殿様の祖先である信広公も之には大いに辟易して、一時津軽の方へ逃げようと決心された程でした。

到底敵しがたいと見た信広公は和睦を申込み、そして媾和の祝ひをするからと云つて、コサマイン始め部下のウタリ達に酒を奨めました。

それからも戦ひは幾度もありました。小さい戦は扨(さ)て置き寛文の役や、国後騒動などは其有名なものでした。

然し何時の場合でも、最も悲しい事はシャモの狡猾さと卑怯さです。彼等は必ず媾和に名をよせて酒を強ひ、酔ひつぶして欺し討ちにするのです。

日本には武士道といふものがあると聞いてゐましたが、吾々ウタリに対する限りさういふ気風が微塵もなかった、全く物とり強盗否それ以上のひどい仕打ちであつたさうです。

敗残者の負け惜しみと云はれるかも知れませんが、確かに当時のウタリは富み且つ強かつたのでした。

元来松前の殿様が福山のやうな西端に居城を築かれたのも、万一の場合、津軽の方へ逃げる便利がよいのと、今一つは火急の場合福山の神竜(かむろ)の岬に烽火(のろし)を揚げて津軽藩の救ひを求める為であつたさうです。

強かつたが故に蝦夷ケ島の名も残ったわけであり、殊に松前の四代目慶広公の如きは、瀬田内(せたない)の酋長に西海岸の漁業管理権を委(まか)し、一時はウタリの自治制度を認めた程でございました。

それ程強かったウタリも次第に入り込んで来る無限のシヤモには衆寡敵(しうくわてき)せず、殊に松前藩の背後には徳川将軍家があって、戦いのある毎、東奥各藩を動員してウタリ征伐をなさいました。

戦さに負ければ負けるほど、勝てば勝つたで、そのあと計(はか)られてウタリの強い人偉い人智慧ある人がだんだん滅びて行きました。

落ち目になるとそれに附け込んで、松前の殿様や、お附きの家来や、藩の漁場を請負ってゐる狡猾な和人(シヤモ)達は、愈々(いよいよ)益々露骨にその圧制振りを発揮して参りました。

一番ひどいのは漁場で酷使されるウタリの労働者でした。朝から晩までの休みない労役、病気になつたからとて一服の薬を恵まれるではなく、青竹(あおだけ)の鞭で犬の如く打(ぶ)たれるのでした。

雨が降らうと風が吹かうと一日の休みを与へられるわけもありません。その頃ウタリ達が漁場へ駈り出される時には鹿の首を持つて行きました。

鹿の首を拝めば雨風が起きるといふ語り伝へがあつたのです。哀れなウタリはそんな迷信にさへ縋(すが)つて、雨風が起ればそのため漁船が出せないで休めるだらうと果敢(はか)ない願ひをかけたのださうです。

かういふ惨虐(ざんぎやく)にかてゝ加へて松前藩は更に制度の上からウタリを苛責(かしゃく)しました。和人の住む土地とウタリの住む土地をハツキリ区別し、今の後志国の積丹半島即ち神威岬以北へは和人(シヤモ)の婦人を一切通しませんでした。

部落へ入り込んで来る独身の和人達によつて、ウタリの若い婦人連がどんなに数々の恥辱を受けた事か、想像するだに身の毛もよだつ様な悲惨な話が語り伝へられてゐます。

狡猾で敏捷(びんせう)な和人達は、なるべくウタリを欺し易くするために、和語を教へる事や和人の服装を真似る事を禁じました。文字を学ぶ事が出来ず、足袋(たび)や蓑笠(みのがさ)を着る事さヘ禁じられました。

今日大半のウタリが低能扱ひされ、結核とトラホームと花柳病(くわりうびやう)に冒されてゐるのはみんな、かういふ和人達の賜なのです。

亡び行く民族、敗残の民族よと世間から蔑まれ、特種保護民となって居りますものゝ、まだ今日に至るまでウタリの中から一人の乞食も出てゐないといふ事は、吾々ウタリのせめてもの誇りです。

 此頃は段々雑婚や生活程度の向上に伴ひ、和人化して参りましたので、自然昔の様なウタリの姿が少くなりました。それ故かウタリを珍らしいもの扱にせられ、毎年夏になりますと内地からお客様が見え、窓から首をさし込んで見て宛然(さながら)動物園でも見物する様な態度で行かれる方が往々あります。

これは余りに吾々ウタリを侮辱し過きてゐると思ひます。自讃ではなしに、私共ウタリの中にも大学、中学女学校の教育を受けた者もあり、又、普通教育だけしか受けないものでも、その心性の真面目さと素直に於ては決して和人に劣つてゐるとは思はれないのです。


私の一番残念に思ふのは、内地のお客様が選り好んで、一番装ひの悪い様な老人達を、カメラにおさめて帰って、これこそは北海道のアイヌだと紹介される事です。

何れの民族でも『人の屑』は避け難いもの、勿論私達ウタリの中にも少々は不心得者もあって、内地のお客様に対し変な踊りをしてお目にかけたり、或は内地方面に自分を見せ物にして出掛けたりするのもありますが、これほんたうに恥かしい事でございます。

又あの踊りは決して本当のウタリの踊りではありません。本来のものは、神に捧げる最も厳粛な最も神聖なものでありました。

さういふ尊い宗教的儀式さヘも今では一般の見せ物として卑猥に歪曲されてゐるのでございます。

 今ではもうどこの部落でも酋長といふのは何の生業(せいげふ)も持たないで其日々々を、内地から見えるお客様のいくらかの喜捨(きしゃ)に頼って、細々と生活してゐる人が多いのであります。

部落内全体の同族たちはそれぞれ農業をしたり、漁業をしたりして日夕汗を流して和人達と少しも変りなく勇ましく真面目に働らいてゐます。

従ってお客様の見世物になってゐるそれらの酋長と、そして普通の部落民との間に、昔のやうな支配関係が毛頭残ってゐる筈もありません。それは全然別箇の存在であり、劃然(かくぜん)と区別された生活です。

すべての環境が 、すっかり内地化してしまった当今(たうこん)、尚(な)ほ旧態依然たる住居と服装とそして笑ふべき家柄と宝物を見せびらかしてゐるのも哀れですが、一万五千のアイヌ民族を、さういふ一人や二人の外貌だけによって律せられる事は、忍び得ないうらめしい事でございます。

 以上誠に失礼な事ばかり申上げましたが、何卒御寛容を以て歴史的事実として御汲みとり下さいまして、少しでも我々ウタリ達を御理解して頂けましたら、どの様に幸ひかと存じます。


(『婦人公論』一九三一年八月号)