「京都の民主運動史を語る会」の会報「燎原」 11月号に寄稿しました - 星田 淳

反体制エスペラント運動とかくされた歴史の暗部

 星田 淳(北海道エスペラント連盟委員長)

 小林亜星が語った母の思い出 9月10日夜NHKのBS-Hiで「わたしが子どもだったころ 小林亜星編」が放映され、亜星は「母がエスペラントの仲間と会合中特高警察に踏み込まれるとさっと文書などをかくして窓から逃げた」と母の思い出を話していました。その頃聞いていた、という「インターナショナル」も歌ってくれましたから、当時「プロ (プロレタリア)・エス」と呼ばれた反体制エスペラント運動だったのでしょう。
 民族・国境の壁を破って「一つの国際語」で世界の人々の心をつなごうとするエスペラント運動に魅力を感ずる反体制活動家は当時多かったようです。
 刑務所に入るたびに外国語を一つ学ぶ「一犯一語主義」を称した大杉栄はまずエスペラントから始めました。これに習ってか、獄中からの学習希望者が結構あったらしく1929年東京で開かれた第17回日本エスペラント大会では、これらの人にエスペラント書籍の差し入れをするため献金しようとの提案が「満場の賛成により」可決されています。
 この時代のエスペラント運動には左翼のプロ・エスと中立主義運動(左翼はこれをブル・エスと呼んだ)の二系統がありました。はっきり別組織になっていたり、同じグループの中に混在していたり、地方によって事情はさまざまだったようです。
 治安維持法の時代でした。当時の特高警察はあらゆる文化活動も監視しており、干渉も頻繁でした。札幌エスペラント会では先手を打って幹部の名で「赤色分子入会拒絶宣言」を出して警察などに通知。特高警察官と打ち合わせて「警察で必要な報告はこちらから出すから会員個人に対する事情聴取へ呼び出しなどは一切しない」ことを約束させました(実は時々破られたのですが)。各地のほかの地方会でも警察への対応にいろいろ苦労があった様子です。
 「マレー語(インドネシア語)を思い出そうと図書館から借りた本を返し、 次に昔勉強したエスペラントをまた始めたい」とのハガキが連盟に来たのは1978年ごろでした。
 マレー語は戦争中ボルネオにいたので、…エスペラントはその前函館にいた頃やったが治安維持法で投獄された…とのこと、エスペラント大会に来てもらったり、文通したりで当時の話を聞きました。その人は、函館で非合法機関紙「戦旗」頒布の件で投獄され、その後当局の監視を受ける「元思想犯」だった浅井喜一郎さんです。当時苫小牧の老人ホームで暮らしていました。
 思想犯を長田野(福知山)で 訓練、ボルネオへ島流し 浅井さんの思い出と、関西エスペラント連盟(当時)の宮本正男さんや治安維持法犠牲者国家賠償請求同盟の調査で、かくされた歴史の暗部が次第に見えて来ました。1942年東条内閣が極秘の閣議で「思想犯前歴者の南方占領地への島流し」を決定。当初フィリピンのミンダナオ島を予定し、44年5月ごろ候補者を集めて京都府長田野(現福知山市)で合宿訓練が行われましたが戦況悪化のためか中止されました。ところが程なく北ボルネオへの派遣が決まり、7月ごろ第1次隊(図南奉公義勇隊)の1人として下関を出港、シンガポール経由でボルネオへ。
 現地では「大和農場」を現地人を使って経営していたそうですが「空きっ腹を抱えて」いたとか、順調ではなかった様子、現地人とのトラブルなどで殺された人もあり敗戦後帰国できたのは半数の15人、あとは戦死、戦病死とされています。(実際は、脱走、現地人との結婚定住、現地人による殺害などがあったのですが)
 第2次隊は13人派遣されましたが幼年10月マニラ湾で潜水艦攻撃を受け沈没、生還者は4人。第3次は募集は行われたが実行されませんでした。
 当局の機密書類に「思想犯は内地に生きて帰さないように」とあり状況によっては殺してしまうはずだったのですが、敗戦で実行できなかったようです。
 第1次隊30人のうち北海道出身者は5人、全員生還。このうち2人と当時の国家賠償請求同盟北海道支部の責任者がエスペラントの仲間で、私との連絡を経て史実の究明が進んだことに不思議な縁を感じています。