星田コメント --- 「エスペラントよろず談話室」から


サハリン遠征広報 投稿者:星田 淳 投稿日:2016年 8月26日(金)

 北大エスペラント研究会と道内外の有志計14名は8月10〜17日サハリンを訪問、一般市民にエスペラントについての講演会と一日講習会を開きロシア人市民20人の参加がありました。予想外の成功、と言えます。


Inteliganta scivolemo? 投稿者:星田 淳 投稿日:2016年 8月27日(土)

 「サハリンと北海道を兄弟の関係に! サハリンに友情のことば、エスペラント語を広めて交流したい」というエスぺランチストとしては、まともすぎるほど「原理主義的(?)な、大胆かつ向う見ずな」計画が、参加者20名を得て将来への足がかりを作れたことは、予想外の成果と言える。Gratulon!
ユジノサハリンスクの人口は18万ぐらいとか、苫小牧市とほぼ同じ。しかし苫小牧で毎年入門講習を計画し、新聞に案内記事が出ても、参加者はゼロか、あっても、1+x という状態。この違いは何か?
「サハリンの人の知的好奇心は、まだ磨滅していない」との判断はできよう。
英語植民地化した日本との違い、ともいえる。それでは日本での戦略(Strategia Plano)はどうあるべきか、が次の課題として浮かび上がる。


日本の残影? 投稿者:星田 淳 投稿日:2016年 8月29日(月)

 また、サハリン訪問について:世界大会などで外国の街を歩いたことは何度かあるが、こんなに一般の市民から日本語を聞いたところはなかった。「会話」ではなくても「ありがとう」、「こんにちは」、「いらっしゃい」、「さよなら」など。
 ユジノへ向かう飛行機で隣の人から「サハリンへご旅行ですか」と声をかけられたのが、まず始まり。国籍はロシアだ、というがアジア系の顔つき。残留朝鮮人の家族だった。母は日本人だった、というが家庭での日本語はあまりなかったらしい。日本語は大学(/ウラジオストクの国立極東大学)で学んだ、という。ユジノの空港からホテルへのバスに添乗した女性も顔は日本人のように見えたが、父はロシア人、母は日本人という。母に聞いた日本語を少し覚えているが会話はうまくできない、とのことで日本語、ロシア語ちゃんぽんの会話を少し。おばさん(母のfratino)がマンガ好きで日本語のマンガ本をたくさん持っていた、私はそれを読んで日本語を勉強していたが、おばさんの家族が中央アジア(ウズベク?)へ引っ越した時それを全部持って行ってしまったので、私の日本語はそこでストップ、とのことだった。


ロシアの歌 投稿者:星田 淳 投稿日:2016年 8月30日(火)

 サハリン訪問団の出発前、講演会で講演の前にロシアと日本の歌を歌おう、と考えた。何を歌おうか?候補がいくつか提案された。
結果的にロシアの歌は、カチューシャ、モスクワ郊外の夕べ、日本の歌が、ソーラン節、手のひらを太陽に、の4曲になった。
練習を繰り返すうちに、何とか歌えるようになったのが、この四つだった、ということだが、その過程で、参加者の年代(時代)の違いの影響がわかってきた。
 ホールでの会合(講演、講習)のあと310号室でのロシア人参加者有志も加わっての懇親会で、rusa sinjorino が歌いだしたのが(もちろんロシア語で)「ウラルのぐみの木」と「ああカリーナの花が咲く」だった。この二つは練習を始める前の歌の候補として準備してあったが、時間不足でのぞかれたもの。
どちらもロシア人にはなじみ深い歌だ、ということがよくわかった。
この二つの歌にもエスペラントの歌詞は出来ている。この次の機会にでも、歌いませんか。


歴史的事実 投稿者:星田 淳 投稿日:2016年 9月 2日(金)

 サハリン訪問記のつづき。
 ユジノサハリンスクの観光案内を見ると「カラフト時代をふりかえる」という項目の下に、神社の鳥居、日本領時代に建った建物や博物館
(今のサハリン州郷土史博物館)などの写真が並んでいる。 権力者の気に入らないと歴史的事実や個人の記録や写真を消した国もあったが、今のロシアは、そうではないらしい。
 その郷土史博物館に行ってみた。先住民(アイヌ、ニブヒ、ウィルタなど)についても、かなりの展示がある。ニブヒの熊の檻は、アイヌのに似ているが丸太の間に隙間がない。
 日本とロシアの間で初めて国境を決めた幕末の下田条約についての資料があった。クナシリ、エトロフまでを日本領とし、その東に引いた国境線の東に、ウルップなどロシア領の島が続いている。日本政府の主張する「北方領土」の根拠となる地図だ。「歴史的事実」は、その通りに展示されている。ロシア政府は「これは2世紀前の歴史的事実。その後歴史の経過があり2次大戦の結果が現在の状況だ」と主張している。