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第68回 北海道エスペラント大会 (La 68-a Hokkajda Kongreso de Esperanto)
日時 10月30日(土曜日) 、13時〜16時
       31日(日曜日)、9 時〜16時
場所 札幌市 中央区 北2西7 かでる2.7 10階1050会議室

[第1日] 連盟総会 13時35分から 出席者22人うち会員18名
* 挨拶 JEI 理事長柴山純一氏からの大会メッセージを同理事の
ヤマサキセイコー氏が代読

<連盟あてのメール>

From: "SIBAYAMA Zyun'iti"
CC: hokkaido_esp_ligo@yahoo.co.jp
Subject: FW: Saluto al Hokkajdo
Date: Sat, 30 Oct 2004 08:58:25 +0900

Sibayama sendas Saluton de JEI al la Hokkajda kongreso,
do bv. transdoni tion al s-ro Yamasaki Seiko, vizitanta vin.



La 68-a Hokkajda Kongreso de Esperanto
Sapporo, la 30an 〜 31an de oktobro, 2004


Gratulon al la 68a Hokkajda Kongreso de Esperanto, esprimas Sibayama Zyun'iti, nome de Japana Esperanto-Instituto.

La rekta renkonto en kongresoj restas cxiam gravaj, ecx en la epoko de reta komunikado, kaj mi estimas kamaradojn kunvenantajn en Sapporo, ke ili kolektigxas el la lokoj en Hokkajdo kaj aliaj distriktoj. La latitudo de Sapporo estas preskaux la 43-a grado norde, kaj simile estas tiu de Florenco, la urbo de la Universala Kongreso en 2006.

Tial mi esperas, ke io komuna okazos en tiu jaro, kiam la japana Esperanto-movado markos la cent-jaran jubileon. Sxajne tiu latitudo havas ligon kun multaj UK-urboj, kiel Montpeliero en Francio kaj Varno en Bulgario.

Antau^ 2 jaroj, kiam JEI serc^is lokon por UK en Japanio, certe Sapporo farig^is unu el la kandidatoj. Kiel vi scias, ne elektis alian urbon, kaj nome en Jokohamo okazos UK en 2007. Sed mi esperas, ke vi foje spertu UK-ojn alilandajn kaj kunlaboros por tio en 2007.

La vojo al la estonteco de Esperanto certe ne estas facila, sed mi esperas, ke vi klopodos tio, eventuale kun la landanoj de la cxirkauxaj
landoj.

Sibayama Zyun'iti, la prezidanto de Japana Esperanto-Instituto.


 極東ウラジオストックを代表してこられたエスペランチストの来日を助けその努力と活動に敬意を表する、北海道大会の成功を祈りますとむすんだ。

「中国四国エスペラント連盟」からのメッセージ


Gratulmesag^o
C^e la 68a Kongreso de Hokkajda Esperanto-Ligo,
reprezentante Esperanto-Ligon de Tyugoku kaj Sikoku
mi esprimas al vi mian koran saluton.
Vi havas longan historion de viaj kongresoj kaj ni
havas tre mallongan. Ni elkore estimas vian klopodon
dau~re okazigi la kongresojn.
Mi esperas, ke via kongreso havu grandan sukceson.
Prezidanto de Esperanto-Ligo
de Tyugoku kaj Sikoku
Nakatuka Kimio


[活動報告]

* 一般報告 宮沢

 新しい特徴は戦争反対、イラク爆撃反対など討論が活発に行われ、その結果が大会の企画に発展していった。ホームページの活動もメールマガジンも順調に推移している。ただ連盟の機関誌だけが頓挫し、「事務局通信」としてしのがざるを得なかったのは残念だった。ウラジオストックからのお客様を日本大会ー北海道大会ー東北大会と広く交流できたのは、今までとは違った新しい面だと自負している。ただ日常活動においてメンバー不足があり今解決の道をさぐっている。

* 広報活動

 (横山) ホームページのアクセス数は三万六、七千くらい。内容はアイヌ語新聞のエスペラント訳、電子雑誌の日本語訳、電子掲示板、大会案内。など。連盟員の投稿をお願いしたい。 メールマガジンは電子メールの形でエスペラント版が読者現在980名。月1回発行、エスペラント入門講座や中国、四国だよりなども掲載した。メール マガジンにJEIの広告を年5回出す事にした。

 (星田) ねらった6月12日の「エスペラントの日」は外れたが15日の北海道新聞夕刊に「国際語エスペラント1世紀の歩み」という記事を出した(5段30行のコラム) 他に苫小牧文化交流センター・サークル連盟の機関誌( 千二百部)に北京世界大会のレポートを書いた

* 教育研究 地方会活動と重複するので地方会報告に代える。

 @札幌エスペラント会 金森

1) 例会は土曜と水曜のふたつ、土曜は月4回午後1時から4時まで。水曜も同じ時間だが月2回。土曜は Marta-Grupoと Lilako-Grupo,それぞれ春琴抄、Mondo de Travivaャoj  を読んでいる。水曜は女性中心に発生した Grupo "Vinberoj" カルロの勉強と会話の練習をしている。

2) 11月の最終土曜はテーマを決めた勉強会を全体で行っている。前回は「私の好きな食べ物」今回は言い換えの練習をする。12月最終例会はザメンホフ祭。

 @EPA 佐藤
EPA(エポア:「エスペラント普及会」)は全道の信者にテキストを配布、2003年から各支部へ約400部、他に夏季学級を行っている、今年集まった子供たちは約30名

 @苫小牧 星田
例会は月2回、苫小牧文化交流センターと星田宅で、参加者は4〜7名、"Lasu min paroli plu!"(Claud Piron) を読んでいる。

* 年間計画 宮沢

 新年講習会は新年会にして気軽に交流する場とした。5月合宿小樽と山部を交互にする方針のとうり実施している。極東ロシア訪問は今年はなし。

*** 賛成・反対・棄権の採決の結果。全員一致承認された
[2005年度活動方針案] 14:35
 次年度の活動方針はやさしく明快に提示された。

1)少数派の運動であることを認めて学ぶ者を増やす。易しく中立な言葉、沢山の国の仲間とのつながりをもてる特徴を生かしながら
2)実際に効果のあった事例をふまえて外から見える活動を心がける。
3)今後の方向として、姉妹都市との交流、機関誌も外部とのつながり、安定した発行体制など、基本的な会員へのサービスを維持する。
4)参加者に魅力ある講習会、展示会。札幌・苫小牧・EPA 以外の地方会強化
5)北海道以外にも広げたいウラジオとの交流。折角エスペラントの発表の場があるのだから。

ロシア工科大学研究発表
 −− 2003年は31部門に分かれ、用語はロシア語と英語(現実の発表、討論は大部分ロシア語)、同大学の Aleksandr TITAJEV教授(ウラジオ・エスペラントクラブ会長)は、その第15部門をエスペラント部門とした。参加者はアジア太平洋地区からロシア以外は中国と韓国、日本。論文集に印刷されたのは英語とエスペラント。「青年研究者の発表会」だがエスペラント部は中高年が多かった。

北海道での日本大会開催
 −− 札幌での1988年の日本大会からもう16年過ぎた。15年から20年に1度とすると、そろそろ視野に入ってくる。

[2005 年度新役員]

選挙は推薦・立候補者全員が信任投票で当選した。
阿部、佐藤(英) 、星田、天方、佐藤( 不)、宮沢、大山口、須藤、横山、樺山、セルゲイ、馬場、後藤、椿、渡辺( 普)

[BANKEDO]

場所 札幌市中央区北4条西5丁目   林業会館内 RKK 二階 マイヨール
日時 10月30日  16時30分〜18時30分
参加費 2千円+飲み物追加料( 一律千円)
参加者 21名
ロシアエスペラント事情、北京大会、エスペラント普及など話題は尽きなかった。しゃべり足りなかった者、飲み足りなかった者は二次会へ。
[ 二次会]
場所 中央区北5条西2丁目 居酒屋 但馬屋 会費二千円
ロシアの S-ino ABISOVAと S-ino KONEVA は日本の居酒屋は初体験、障子、切り込み炬燵式テーブル給仕法などに興味深深帰国後は最大の話題に?

大会2日目(10月31日、かでる2・7)
  *10時〜13時  公開講演会「北朝鮮の今」
  1 、エスペラント連盟の国際活動
  北海道エスペラント連盟委員長星田淳(20分)
  2、北朝鮮の今 石丸次郎氏(1時間〜1時間半)
  *14時〜16時 ロシアのエスペランチスト(主婦)と語る。 
  3.ロシア極東の民族文化などの歴史と現状など
公開講演会「北朝鮮の今」 ジャーナリスト石丸次郎氏(1962年生まれ)

 星田北海道連盟委員長あいさつ

エスペラント運動の基本は国境を越えた民衆を結ぶもの。北海道エスペラント連盟は1932年(昭和7 年)空知郡山部村(当時:現在の富良野市山部)で発足、以来72年になる。第一回大会にはハンガリー人、アメリカ人も参加。LA ESPERO(Zamenhof) の中にも世界の人々が国の枠を超えて結び合うとある。しかし現実には諸国民の中にかべがある。2次大戦後最大の壁はスターリンによる「鉄のカーテン」1989年に壊れたが、まだその間でもエスペラントのつながりも、ジャーナリストからの情報はあった。時代は下って、ベトナム戦争の当初、北ベトナムには日本人ジャーナリストは一人もいなかったので我々エスペランチストにジャーナリストからの質問が相次いだ。
私達はエスペラントを通じて北の情報を知りえたからです。NATOのユーゴ爆撃では、確かに大量の情報が流れたが、すべて西側の情報で現地取材のものは極めて少なく、ユーゴの各地から発信された生々しいエスペラントでの情報を新聞各社から取材された。北海道連盟ではこの事実を小冊子にまとめ発表した。 今日お話いただく北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)でも、建国後ある時期までは政府・国会の要職にもエスペランチストがいたことがあるが、「スパイ」として死刑になった人もある。
1960年代にはピョンヤンにエスペラント団体があり機関誌「PACO」が発行されたこともあったが、国内のエスペランチストとは連絡できなかった。今もそうで、エスペラントによって「壁」を越えることの出来なかったただひとつの国と言える。

 石丸次郎氏の講演要旨

 姉が熱心なエスペランチストだったのでエスペラントについては多少の知識はあったが、北朝鮮の雑誌については初めて聞いた。今北では当局が管理できない事は徹底的に弾圧しているからエスペラントは死滅していると思う。私はフリーランスのジャーナリストで、1987年に結成したアジアプレスに所属している。韓国ではチョンドハン大統領の時、民主化運動の中心は学生だった。88年私はソウルへ二年半留学して朝鮮語を習得した。
 北朝鮮は国防、自立、自主を国是として、貧しいがプライドを持った国である。
これは正しいことだが、韓国から帰った者は取材には行けない。93年2 ヶ月かけて、中国側から国境を端から端まで取材した。その時すでに食糧難が始まっていた。
朝鮮人自治区の人は「食べ物も無い、着るものもない。あんな所へ行ってなにする」という。また脱北者が「配給が1 ヶ月も無い」と証言した。確認を取るため、やっとの事で三度ほど北へ行ったが、寝る時以外は監視員がついて美しい所しか見せてもらえず。まったく無駄足だった。その後中国国境に32〜3回取材し、脱北者500 人余りの証言を聞いたが、それでもなおわからない部分はある。
  
1)メディア  2)北の事情   の二点について話を進めて見たい。
 2004年、小泉首相がピョンヤンに行った。随員記者によって、大量の報道がされたが、おおかたの報道番組製作の現場は実に悲惨な状況だ。テレビ( 民放)には朝鮮語ができる担当者がひとりも居ない。ほとんどが引用、孫引き量は多いが質は薄い。
 番組を作っている人は現場に行っていない。番組は視聴率がすべてだ。「北朝鮮もの」の視聴率が上がってくると、どの局もネタを探しに来る。「何かないですか」「何をやりたいんですか」「何でもいいんです、何か作らねば・・・ 」北朝鮮ものなら何でもいい、となり、中身の薄い水増しされデッチあげられた報道が増える。「北朝鮮もの」の番組を見るときは眉によく唾をつけて見るようにおすすめします。
 拉致問題の蓮池透さん(家族の会事務局長)。とても穏やかで、温厚な人。テレビは強く激しい言葉を取り出して見せる。長い会見のほんの1〜2分しか放送しない。きつい場面だけが放映される。次第に視聴者の反感を買う、あの人の顔が出ると視聴率が落ちるといって重要な場面でも彼を使わない。テレビ局は内容の検証をしようとしない。テレビ局は彼の対面などどうでも良いのだ。
 1995年洪水に見舞われ北朝鮮は世界に食料支援を求めた。やっと世界が大変らしいと気が付き始めた。97年になって脱北者が急増、国境の町に月50〜60人も来るようになった。残った村では一日2 人が死んだ。大きな町では配給がなくなる。
毎日死体を見、村の人口は1/3になり、NGO の計算では15%が死亡した。と発表した95年から98年にかけて250〜300万人の餓死者が出たと見られる。キム ジョンイルは死者を出しても国を閉じて政権の維持を選んだ。今日では援助を国外に要請すれば事態は避けられる。北に民主主義がないから、人民は食糧とアクセスする事ができなかった。飢饉が長期にわたるのは民主主義と人権の考えを導入すれば解決できるもの。
 人道との名目で食料だけを送った側にも問題はある。どの国にも物資の配給には順序があるが、貧しい官僚の支配下では行政の不正、腐敗がある。支援物資が意図的に横流しされ、利潤が幹部の物となる。だが最後には人の口に入る。充分の支援があればヤミ値も下がる。 中国への越境者の大部分は援助を貰うと国へ帰る。約200万人くらい、帰らない難民は五〜十万くらい。 人の大量移動にはプッシュ要因とプル要因がある。プッシュ要因は朝鮮国内に食料と自由がないこと、プル要因は中国には食料があることだ。今脱北者はタイ・カンボジアに3千〜5千、韓国領事館に50人、日本にももと在日朝鮮人が70人。在韓の六千人の95%はこの5年間の脱北者だ。
 北の問題は国際問題としてとりあげ国際協議が必要な時期にきている。日本も今一番辛いときに手を差し伸べるべきで、北が民主化すれば帰って行くはずで、外務大臣が何回も往復するより効果があり、両国間にとって大きな財産となる。 中国から帰ってきた人は、金や食料は食べればなくなるが、その体験をしゃべる。国際ニュースも知る。この数年間で建国以来の情報があった。人の意識が変わりつつある、キム ジョンイルへの忠誠心も少なくなった。プサンでの肖像問題は忠誠心ではなく、構造的体制のなせる業だ、人前では好むと好まざるにかかわらず、ああしなければならないのだ、

El raportoj de la rusaj sinjorinoj. Sincere, HOS^IDA A.

[ 極東ロシアへどう人が移り住んだか] (以下要旨)
Kiel oni eklog^is Foran Orienton dum la 17-a 〜19-a jarcentoj
Raportis(報告) S-ino Ludmila ABISOVA 抄訳:後藤義治、星田 淳
 シベリアにはヂュルヂェン族、ウデゲ族など多くの先住民族が住んでいた。主にウスリー川やスーチャン川の谷やポシェト湾の海岸で狩猟漁労の生活を営んでいたが、16〜17世紀の満州族の進入で一掃された。17世紀から18世紀前半にわたるシベリアと極東の獲得はわが国の歴史の上で重要な段階になっている。当時この地域にはいかなる国家権力も存在していなかった。極東南部地域についてロシアが情報を得るのは17世紀中程からである。動植物、自然資源だけでなく、居住地や耕地の面積まで記録されている。ステパノフの指揮する1隊はウスリー川に沿ってハンカ湖まで到達した。
 入植者は流れ者かコサックでした。彼らは密林を伐り開き道や、村を作った。コザックは主に川辺に住んだ。そして石柱を立て「ロシア帝国」と記した。1858年のアイグン条約によってロシアはアムール地域を手に入れ、コザックと農民が住み始めた。政府は時には推奨し、またブレーキを掛けた。だが住むにはまだ不十分だった。ロシアの南東国境を守るためにバイカル地域からコザックを移住させた。流刑地や越冬キャンプも多数建設された。
 バイカル地域からのコザック移住は1862年で終わり、1895年以後の移住者は農民、囚人、退役兵士、一般市民たちになった。
 ロシア本国での迫害を逃れ、常に新天地を求めてタイガ(密林)の奥に移り住んで行ったロシア正教旧教徒は特異なグループだった。心の支えの聖書、祭神具はいつも彼らとともに地の果てまで同行した。そして世代から世代へと伝えられた。家庭や親族内で、老人が子供たちに教える、宗教教育の伝統はロシア革命まで続いた、しかし、1920〜30年代になると、年長者が次世代に教えることが、
追求の的となる危険な時代を迎え、極東地域の旧教徒はますます辺境の地へ移り住んだ。国内の至る所から迫害を逃れる人たちが極東へ移住した。本国と違って宗教的な自由が有り行く先々で毛皮や農産物を集めて暮らせ、また兵役の10年免除もあった! 旧教徒たちはこうしてビキン川やイマン川沿いの平地に住み着き、多くの村が形成された。
 19世紀の移住者たちの主要な階層は、飢饉や土地不足のため住み慣れた土地を去った農民だった。しかし当時は長距離移動の条件は悪く、慣れない土地での開拓には大きな困難があった。農耕不適地が割り当てられることも多く、収穫できるようになるまでの五、六年を耐えられない者、死ぬ者も出た。移住者は民族的にも多彩で、地名に出身地の名をつけた。1881年の「土地のない農民の移住に関する法律」以後、東スラブ人(ウクライナ人、ロシア人、ベラルーシ人)の大規模な移動が始まった。
 その大部分、85%はウクライナ農民だった。当時(千八百七十〜八十年代)はウクライナの人口増加が著しくどこかへ移り住まなければならない状況があった。もう一つの理由は、ウクライナでは自作農民が多く、自分の土地、家、農具を売って入植先での費用に充てることができたこと。
 1883年オデッサ〜ウラジオ間の船便が開通し、ウクライナ農民の極東への移住は大いに楽になった。この年はチェルニゴバから255家族、シベリアから28家族が極東に入植した。1884年には海路で233家族、陸路(鉄道、馬車、シルカ川やアイグン川沿いでは筏や船)経由で49家族が入植。
 沿海州に最初に移住してきたのは、60ルーブル以内の移住許可料を払える裕福な階層で、次は男手2〜3人以上がある家族、しかし貧困層も何家族かでグループを作り金を工面して入植した。新しい土地では収穫を得るまで4〜5年は掛かった。仕立て、木工など技術のある人はよかったが、他は魚,狩、筏流しなどでしのいだ。地主になる苦労は続いた、だが先住民との関係において植民地化を狙ったものではなく、先住民と協力して、その地の産業振興を図ったものである。
 極東ロシアの川にはチョウザメが満ちていた、移住農民はまだキャビアの利用を知らなかった。先住民から体長五、六十センチのもの1匹を2ルーブルで買い、煮て犬や豚の餌にしていた。後には先住民からキャビアをひと樽いくらで買うようになる。
 1917年のロシア革命まで極東は女不足でした。この地域がロシアに編入された直後からこの問題はクローズアップされ、沿海州知事は「新住民のうち六百人の成人男性は結婚できず、営農に支障がある」と語った。もう仕方がない、適齢期でなくても、老女でも子供でも、結婚対象とせざるを得なかった。農民は子供たちを早く結婚させるようになった。若い娘がいたら大金をを払って妻にしたが、容姿などは問題外で主婦として何が出来るかが重要であった。1905年の東清鉄道の完成で、中国を経由してロシア本国と極東との交通は安定化した。若者たちはウクライナへ戻って嫁を連れ帰ったが、友人の分まで花嫁候補を連れ帰り、その費用(礼金)は友人の親たちが支払った。この裏で多くのドラマが生まれた。
 このように、千八百八十〜九十年代の極東への大移動は当時のヨーロッパロシアの農業社会の尖鋭化する矛盾の解決策として発展したものだった。
 千八百七十年代からはロシア当局の許可を得た中国人、朝鮮人もウスリー地域に入って来るようになり、狩猟や朝鮮にんじん採集に従事した。中国人の猟師は一時的な入国で、猟期が終わると家族のもとに帰る。中国政府は中国の女性の移住は許さなかった。
 朝鮮人は木材の流送や金鉱で働き、スラブ人のように農民として定住を望むものが多かった。朝鮮政府は国外脱出者に死刑を課したが、かえってそれ以後ロシア国籍を取って移住するものが増えた。
 東スラブ人移住者と先住民たちの文化は相互に影響しあって新しい文化が生まれ、先住民の文化も発展した。先住民の知恵を得てスラブ移住民の文化も豊かになった。先住民もスラブ人から習った農業、リンゴ栽培、蜜蜂の飼育で生活できるようになった。

第2日の分、S-ino Koneva 報告から。

 [東スラブ人の習慣と儀式: 報告 S-ino Galina KONEVA ](以下要旨)
Kutimoj kaj ceremonioj de orientaj slavoj
                    抄訳:後藤義治、星田 淳
 東スラブ人の習慣と儀式をお話するのは、民族の「心」を知り、理解してもらうためです。儀式は生まれてから死ぬまでを精神的な習俗を様式化したもので、旧教では風呂でお産をする習慣がある。お産の世話は年とった女性が普通、生まれると産湯を使う。洗礼は大分後になり、二歳になると頭にはさみを十字に入れる。結婚は契約である。婚約は密かに行われ、村のものにも知られない
ようにする。婚約が整うと女性側は家族と一緒に未来の夫の側の家庭を見に行く習慣だった。新郎側では家の内外を掃き清め、豪華な品を並べて見栄えをよくする。新婦側は家、営農のための機具、建物、家畜、新郎の服装、その家の財産など、すべてを観察する。もし女性側に不満があれば新郎の家には入らず帰ってしまうこともあった。しかしその場合は女性側の親が男性側の家が準備のためにかけた費用を弁償する習慣だった。婚礼の披露宴は新郎新婦の親戚全員を招いて盛大に行われた。宴の前日、新郎新婦はそろって村じゅうをまわり、村人を宴に招いた。
 結婚前に花嫁はサウナに連れて行かれ、乙女達によって身体を清め白のガウンをまとう。新郎は植樹をする。披露宴の期間は民族によって違い、1週間だったり3日間だったりさまざまだ。 余談だが10世紀東スラブ族では死刑を猶予する
結婚があった.刑場への道すがら女が囚人に布を投げ掛け「この人と結婚する」と宣言すれば死刑は免除された。ウクライナではこの習慣は19世紀まで残っていた。現在では若いものの間で昔風の結婚式を上げようとする者もいる。
 ---- この後昔から伝わる諺を当てたり古いロシア民謡を楽しんで会を終えた   
          15;40
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