琉球語について Pri Lucxa (Rjuukjuu-a) Lingvo

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1996年7月、チェコ共和国のプラハで開催された第81回世界エスペラント大会でプラハ宣言がなされました。この宣言では、国際コミュニケーションにおける価値観や論点などを示すととも、エスペランチストの立場を明らかにし、エスペラントが果たせる役割を提起しています。
この宣言の中で、第5項では言語権(言語的人権)が、第6項では言語の多様性がとりあげられています。
この言語権については、第3回国連総会で採択された世界人権宣言の第2条でも、「言語による差別があってはならない」と言及していますし、第21回国連総会で採択された「国際人権規約」のB規約の第27条でも、自己の言語を使用する権利について言及しており、言語を人権の内容として位置づけています。
エスペランチストの多くは世界人権宣言に掲げる人権の中には「言語権(言語的人権)」があると主張し、人権宣言の普及に努めています。
私は、このような言語権や言語の多様性という観点から、沖縄語によるプラハ宣言を作りました。

このプラハ宣言沖縄語版については、沖縄語の復権運動にご尽力なさっている南謡出版比嘉清さんに、ご多忙の中、助言等のご協力をしていただきました。ここに改めて謝辞を申し上げます。なお、沖縄語の作文するにあたっては、この南謡出版の「実践うちなあぐち教本」、琉球語辞典(大学書林)、沖縄語辞典(国立国語研究所編)を主に参考にしました。ご興味のある方は、「実践うちなあぐち教本」等を購入して、沖縄語に親しんでください。そうすることが、ひいては沖縄語の復権運動を理解することにつながるかもしれません。

ここでは、琉球語(それを分類した中の一つが沖縄語)について、「言語学大辞典」(三省堂)、「沖縄の言葉」(中央公論社)、「ことばと社会」(三元社)、「実践うちなあぐち教本」等を参考にして、以下のようにまとめてみました。興味のある方は、ご覧ください。なお、明治以降については、とくに沖縄語に焦点をしぼってまとめました。


琉球語(琉球列島の諸言語)は、北琉球語と南琉球語の2言語、あるいは、奄美語、沖縄語、宮古語、八重山語、与那国語の5言語に分類できると言われていますが、ここでは琉球語について、簡単に述べてみたいと思います。

日本語と琉球語の違いというのは、ヨーロッパの言語の観点で見れば、方言というより、違う言葉と捉えた方が自然で、琉球語は日本語から千数百年前に枝分かれしたそうです。日本語の方言学者は、一般に沖縄語を日本語の方言と捉えていますが、この琉球語と日本語との差異が、イタリア語とフランス語くらいの違い、英語とドイツ語以上の違いほどに著しいということ、本土から政治的に独立した琉球王国としてこの地域が認識されてきたという、歴史上の理由が働いて、日本語と独立した言語と考える人もいます。

このことについて、南謡出版の比嘉さんは、言語に関する世界宣言(1996年バルセロナ)には、「(すべての言語共同体は)固有の名称を使用する権利を有する」とあるが、「沖縄語」「琉球語」というような名称は、言語共同体のアイデンティティーの精神こそがそれを決めるのであって、政治的・学問的に決めるものではないと主張しています。

琉球語は、言語学的に系統が同じであると証明されている日本語と祖語を同じとしていますが、現代日本語は漢語などの大陸の語彙を積極的に取り込んだのに対し、琉球語は漢語の影響は少なく、地理的隔離などの条件から古代大和語の名残はありますが、独自に発展していった言語となりました。大和語系の特徴である音節の長さを短くするために、共通語は漢語を取り込んでいったのに対し、沖縄語はM系、N系のン音便が著しい傾向にあります。日本語と別の道を歩んだ琉球語は、共通語のエ行とオ行が沖縄語のイ行とウ行になる傾向にあるなどの音韻的な差の他、動詞の終止形と連体形が本土方言に比べ明確に区別されているなど、活用語の活用変化の差など日本語の文法にあてはまらないところが多く、「胆(ちむ)ん胆ならん(気が気でない)」など直訳できない慣用句が多くあります。沖縄は、日本本土や大陸から離れた辺境の小島であったため、近年の軍事的拠点や、貿易的拠点としての価値が発見されるまで、外的な干渉はほとんどありませんでした。

言語学の研究からは、琉球語には、文法の面で、(1) 動詞の終止形と連体形の区別があること、(2) 仮定形と已然形の区別があること、(3) 形容詞語幹の独立性がみられること、(4) 第一人称代名詞「あ」があること、およびその文法機能が常に助詞「が」を伴って連体修飾すること、(5) 格助詞「い」「つ」「な」ほか、助動詞、助詞などのいくつかの語の古い文法機能があげられます。
また音韻の面で、(1) ハ行子音hに対応するpがあること、(2) ワ行子音wに対応するbがあること、(3) チ・ツの子音に対応するtがあること、(4)ラ行子音が語頭に立たないこと、(5) 歴史的仮名遣による発音の大部分をそのまま区別していること、(6) 奄美大島で上代特殊仮名遣のオ段の甲乙の区別がされていること、
語彙の面でも、(1) とよむ(鳴響む)、(2) ひら(坂)、(3) あけづ(蜻蛉)、(4) ちび(尻)、(5) はべる(蝶)、(6) ふく(肺臓)、(7) なゐ(地震)、(8) あかとき(暁)、(9) うはなり(後妻)、(10) よむ(算)、(11) ふぐり(陰嚢)、(12) つと(苞)、(13) とまへて(尋まへて)、(14) へた(端)などの古語が残存していることが指摘されます。

これらの事実は、奈良時代もしくはそれ以前の日本語の特徴を物語るなによりの言語学的なあかしだそうです。そういう事実から推測して、琉球方言の成立は8世紀もしくはそれをさかのぼるそれほど遠くない時代と推定できるそうです。

琉球語の分布地域は、17世紀初頭の薩摩侵攻以前の琉球王国が支配していた地域(北限は奄美大島北端の佐仁部落で、西南限は八重山諸島の与那国島)に一致しますが、琉球王国が琉球列島を統一する以前は、黒潮の海で航海術が未発達な時代には地理的に隔てられたものとなって、日本本土の政治的権力の外におかれ、独自の発展の道を開き、日本語に対する独自性をもたらしました。こうして琉球語は、日本語のどの方言とも相互理解度が欠いているものとなりました。

日本語の方言については、地域が隔たるにしたがって、共通語的性格を持った言語の助けなしには、相互理解が不可能と言ってよいほどの大きな相違がありますが、青森から鹿児島まで方言は、ほぼ地域的に連続的に変化していると言うことができるそうです。隣接する方言と著しく違いがあって、相互理解がやや困難をともなう例もありますが、隣接する地域どうしの人であれば、習熟によって、比較的早く克服できるとも言われています。これに対し、琉球語と日本本土の日本語との間の言語上の差異は、地域的に不連続で、非常に大きく隔たっていて、相互理解性を欠いていると言われています。琉球語を日本語琉球方言とする日本の方言学者も、日本語を、まず、本土方言と琉球方言の二大方言に分けています。

琉球列島には、旧石器時代、少なくとも3万年くらい前から人が住んでいることが知られていますが、日本本土の縄文時代から、少なくともその中期以降から、本土と文化交流があったことが考古学的発掘から明らかとなっています。しかし、今日の琉球語をこの列島にもたらした人々が、いつ本土から南下してこの列島にいったのかは、現在のところ、考古学的にも言語学的にも、正確には特定できていません。日本語と琉球語とは、相互理解が不可能なほど大きく違ってはいても、詳細な比較を行うとその類似性は大きく、基本語彙のほとんどを含む、きわめて大量の語彙に基本的な音韻対応がみられることから推して、今日の琉球語諸方言を分岐発展させるにいたったもとの言語、琉球語祖語が、九州経由で南下して琉球列島にいたったと考えられてます。しかし、前述したとおりその時期は正確には特定できていないですが、縄文時代に遡る可能性は低いと考えられています。これは、社会組織の発展段階と言語の存在のしかた、地域的な分布のしかたに関して、いままでの知識から考えて、縄文時代の西日本には、まだ統一的な言語が存在する文化的基盤が欠けているというのが常識的であるからと言われています。

近年、奄美大島や沖縄島への弥生式文化の伝播が、考古学的に確かめられていることから、推測の域はでませんが、琉球語祖語が、琉球列島にいたった時期は、本土の弥生時代に起こったと考えられます。このような想定は伊波普猷、服部四郎ら、琉球語学の先人たちがおこなったところです。なお、本土で弥生時代におきた大きな社会変革が琉球諸島に訪れ、農耕社会の小規模な地域的な支配者が現れて、互いに武力闘争を始めるのは、11〜12世紀のころからであると考えられています。

大和政権が遣唐使船の航路の開拓の必要から南島との交渉が生じたことが、「日本書紀」や「続日本紀」に記載されています。ただし、琉球諸島には、このことに関連した考古学上の遺跡は発見されていません。遣唐使船には奄美訳語をのせていたといわれますが、どういう言語であったかは不明となってます。また、九州のおける熊襲(くまそ)、隼人(はやと)の言語が、どのような言語であったかも不明だそうです。ただし、「大隅風土記」にある、ただ一つの意味が明らかな、隼人(はやと)の言語の単語、「海中之州(ス)」を表す「必至(ヒ(ッ)シ)」なる単語が、琉球諸方言に広く分布しているラグーンをとりまく珊瑚礁を意味する単語hwisi フィシ(首里方言)に対応すると考えられるそうです。なお、この単語が「干瀬」、すなわち「干る」という動詞の語根と岩を意味する「瀬」との複合である可能性は小さくないが、そうであると確定することもできないとしています。

琉球語祖語の南下の時期については、確かなことは分かりませんが、11〜12世紀と考えるのは、無理があるそうです。それは、琉球語から琉球語祖語は大和政権の支配者の畿内の方言の影響をさしてまだ受けていない段階の古代九州方言に近いと考えていること、「おもろそうし」のような古い宗教的歌謡の中にみられる宗教的な意味あいを持つ語彙の中に、本土にも見出される古い漢語と共通の漢語があるなどを理由にあげています。

日本語の方言は8世紀ころに中央語を含む西日本と東国といわれる東日本に分かれていましたが、13世紀までに西日本の方言が、新しく変化した上方の方言と、依然として古態をとどめる九州との方言との間に差が生じ、東西の二大対立から、東部、西部、九州の三大方言になってきたと考えられています。

琉球語諸方言は、本土の日本語諸方言のうちでは、音韻、文法、語彙の各面からみて、九州方言にもっとも多くの類似点を見出され、琉球語がいつとは確定しにくいにせよ、古い時代の九州方言から分岐したものであることは確実とみてよいとしています。また、琉球列島の諸方言全体を覆う語彙に、また、「おもろそうし」のような古い宗教的歌謡の中、そして、沖縄の伝統的宗教をもっとも強く特色づけるような宗教的な意味あいをもった語彙の中に、本土にも見出される古い漢語と共通な漢語で見出されることから、それらは、日本語の本土経由で、さらには、朝鮮半島経由の古い日本語に入っているものではないか、としています。

琉球列島の歴史は、12世紀頃から沖縄本島を中心に展開します。按司(アジ)とよばれる小地域の支配者どうしが互いに対立対抗する、「按司時代」または、「城(ぐすく)時代」とよばれる時代に入り、14世紀から15世紀にかけて、この島で、北山、中山、南山の3つの勢力が拮抗する「三山対立時代」を経て、15世紀には、首里(現在の那覇市内)に城をかまえた中山が、まず、北山を、ついで南山を滅ぼして、沖縄本島とその周辺離島をはじめて政治的に統一して、さらには、奄美、宮古、八重山と、琉球列島全体に支配権をのばして、琉球王国を成立させました。


このように15世紀諸島に琉球王国の王権が沖縄島において確立し、ついで他の琉球諸島への王権の伸長がなされましたが、17世紀に薩摩藩によって侵攻され、奄美諸島が割譲されます。薩摩の侵攻以降は琉球王国は薩摩の属国となりましたが、言語を含め文化は衰退することはありませんでした。

薩摩の支配以前の17世紀初頭までの時代は、しばしば古琉球の時代とよばれ、ことに15世紀末から16世紀前半の第2尚(しょう)氏王朝の尚真(しょうしん)王の時代を中心に、仮名文字と漢字、和文と漢文が導入され、さまざまな文化、文物が、中国、日本本土、東南アジア各地から移入され、国家の支配体制と王城とが整備され、多くの寺院が建てられ、この古代的な小王国が繁栄のピークを築いた時代として知られています。12世紀ころから、古代社会に変わる変革動乱の時期となり、それに伴い言語そのものも大きくゆすぶられ、琉球語は、方言化の傾斜が始まり、日本語祖語の構造を基層にもちながら独自の変化を始めるようになったと言われています。そのことは、16世紀初頭に記録された「おもろそうし」やその他の資料に、琉球語でもっとも大きな変化と思われる五母音から三母音への母音変化をはじめ、子音の変化や、特徴的な動詞変化、形容詞変化など独自の変化を見せ始めたことからわかります。

1609年、琉球王国の中国への朝貢貿易の利益に目をつけていた、薩摩の島津氏は、徳川家康の許可をとりつけて、琉球王国へ武力侵攻を行いました。武装解除された琉球王国は、その政治、経済、そして風俗、文化にいたるまで、薩摩の厳重な監視のもとにおかれて、島津の利益に奉仕するために、王国としての体裁を保ち、中国を欺き、薩摩の付庸国になり、中国への朝貢を続けました。

薩摩は、2世紀以上にわたって、奄美を直接支配、琉球王国を間接支配しましたが、両地域に対する薩摩方言の影響は表層にとどまっています。このように、琉球語諸方言の薩摩方言化を免れたのは、薩摩が、検知などで、強力な支配機構を作り上げたにもかかわらず、基本的にはこの列島における伝統的な村落共同体を破壊せず、利用したからだそうです。土地が狭く、人口のわりに生産力の高くないこの遠隔の土地は、薩摩がみずから植民を行って古い共同体を破壊することがなかったため、その言語と伝統的文化は、大きな破壊を受けることなく、明治時代にいたることになります。

もっとも、独自の道をたどりながらも、分かれてきた日本語との接触は間断なく続いたらしく、古代語との関係だけでなく、院政、鎌倉期や室町期、江戸期の影響もかなり受けており、独自の発展に重ねて、それらの影響も見落とすことはできないそうです。また地域的に近い九州方言とは、アクセントや語彙、文法などの類似が明らかにされており、特に政治的、経済的、文化的に密接していた鹿児島方言との関係は、語彙などに多くあらわれているそうです。しかし、前述のとおり、薩摩方言化することなく、その影響は表層にとどまっているそうです。

明治維新後、琉球王国は、1872年(明治5年)にいったん琉球藩となってから、本土にやや遅れて、1879年(明治12)年3月の廃藩置県を迎えました。明治政府はそれまでの琉球に対する旧慣温存策を変し、同化政策として琉球の日本語化の為に、内地からの募集教員を動員などして「普通語奨励運動」という日本語教育を実施しました。琉球人は日本への帰属意識が薄いばかりか、中国文化への強いあこがれをもった支配階級の士族層など、清・中国への帰属を主張する人がいたことも口実にして、皇民化教育とともに沖縄語の撲滅運動が展開され、学校で沖縄語を使うものは、懲罰として「方言札」なるものを首にぶらさげられました。「普通語」の対語として無理にでも沖縄語は「日本語の方言」との位置付けなければならず、沖縄語は「方言」呼ばわりされた上に、撲滅の対象されるという二重の辱めを受けました。しかし、日本語の使用は、教育現場や公共の場に限られ、ほとんどの日常の場では依然、沖縄語でした。1940年の方言の美を指摘する柳宋悦ら沖縄を訪れた日本民芸家協会と標準語励行を推進する沖縄県学務課との方言論争は、沖縄の言語問題を象徴する事件です。第二次大戦末期には、沖縄語で会話するものはスパイとみなし処刑するという日本軍の通達があり、実際に処刑された人もいたそうです。

戦前までは沖縄語は日常語でしたが、戦後は大和化が急速に進みました。戦後、沖縄は日本領土として残留し、日本語の習得を社会的上昇と結びつける傾向は残りました。また、圧倒的な軍事力と非人道的で強権的な米軍軍政への反発が「日本復帰運動」への呼び水となり、沖縄側の日本指向が好むと好まざるに拘わらず、沖縄語の撲滅運動が押し進められました。強権的な米軍軍政を前に無力感を思い知らされた琉球人は、大和人と連帯することが将来の沖縄を救うことになると考えました。そして、戦前に大和人が成しえなかった同化政策を無条件に受け継ぎ、いまわしい沖縄語の撲滅運動を教育現場で徹底的に展開していくこととなりました。
1950年代から60年代のこの「日本復帰運動」では、「方言札」などを用いた標準語の奨励が強行されました。地域によっては、家庭に戻っても今度は部落内で「方言札」がまわったとか、「方言」直訳の「誤った」共通語の使い方を矯正指導したり、共通語の弁論大会を開いたりしたところもありました。しかし、琉球人をして大和化させたのものは薩摩による占領以来の琉球に対する苛めと差別が繰り返されたことが背景にあることを忘れてはいけません。本土復帰は米軍支配から逃れる期待も込められていました。しかし、今日に至るまで沖縄は米軍の重圧から解放されていません。

最後に現在の沖縄の言語運動の現状について簡単に述べます。沖縄語のメディアでの使用の歴史は長く、標準的な首里・那覇方言を用いた「方言ニュース」が1961年以来ずっと続いています。この背景には島唄・組踊・琉歌・沖縄芝居といった地元の芸能・音楽文化の伝統があります。しかし、沖縄語による創作文学や教育運動が欠けていたため、「方言ニュース」や芸能活動、ディスクジョッキー以外で沖縄放送が拡大することはありませんでした。南謡出版の比嘉さんは、今後の課題は沖縄語文学(散文による創作)であると主張しています。

言語教育運動は、カルチャーセンターや市町村の文化講座の中で1990年代になってはじまりました。このきっかけになったのが、1992年の首里城復元など、沖縄本土20周年を記念する各種イベントであり、NHK大河ドラマ「琉球の風」の影響が大きかったそうです。全国放映終了後制作されたNHK沖縄支局による「琉球の風」沖縄語版(1994年春)が沖縄語学習熱を盛り上げる大きな契機になりました。言語講座で主に使われている教科書は、「美しい沖縄の言葉」ですが、首里・那覇方言をもとにしていて、明治以前の琉球王国以来の沖縄語の規範的伝統が受け継がれています。最近出版された、ペンネーム、吉屋松金(ゆしやまちがに)氏の「実践うちなあぐち教本」は「沖縄語で作文する事に重きを置いた教科本」とあるとおり、散文の書きことばとしての沖縄語の普及を明確に意識した、初めての教科書です。(南謡出版、3800円)
http://www.haisai.co.jp

今回のプラハ宣言沖縄語訳については、この吉屋松金(ゆしやまちがに)こと比嘉清(ひがきよし)氏の協力をいただきました。

この他に、琉舞や琉歌などの市町村の文化協会が連合して、1996年に沖縄県文化協会が設立され、この催しとして、「島ぬくとぅば語やびら大会」、沖縄語による弁論大会が実施され現在まで毎年開催されています。

現在の沖縄の言語運動は、組踊や琉歌といった古典的芸能・文学、また沖縄芝居や「方言ニュース」という部門を除けば市民講座としての言語学習講座と、沖縄音楽(うちなあミュージック)における意識的な沖縄語の使用が中心的分野となっています。

2000年10月には、沖縄県浦添市で沖縄方言普及協議会が設立され、150名余の会員が参加し、若い世代の参加も予想以上に多かったそうです。今後は沖縄語普及継承に関心を抱く人に参加を呼びかけ、さらに大きく発展するように努めていくそうです。


なお、「沖縄語辞典」に主としてある首里(しゅり)方言は、琉球王国時代の都である首里で使われた言語で、王国時代の四百数十年間、琉球諸島全域に通じる標準語の位置を占めてきましたが、廃藩置県以降は、商業都市であり県庁所在地であった那覇(なは)の方言にその地位をゆずるようになってきました。首里方言と那覇方言の差は主としてアクセントで、若干の音韻的区別を除いてよく似ている言葉だそうです。

辞書については、前述の南謡出版の比嘉さんより、以下のコメントをいただいたので、紹介します。

お問い合わせの沖縄語辞典についてですが、以下のとおり紹介いたします。沖縄語は標準語が確立されて居らず(かつては役人は言葉としての首里語が標準的だったが、現在は日常語や民謡作品の多くは現実には那覇語系・越来(ごえく)語系・勝連(かつれん)語が圧倒していると考えられ、首里語はマイナーな存在です)、したがって、辞書がすべてと言うわけではありませんのでご留意願います。

沖縄語関係辞典については代表的なものでは以下のとおり。
●国立国語研究所編・大蔵省印刷局発行「沖縄語辞典」平成10年発行 定価5,200円(税別)。沖日/日沖スタイルで編集されていますが、沖縄語は表記は例文も含め新ローマ字表記になっているため、少し使いづらい面があるかも知れません。主に首里語、少し西原(にしはら)語が混在するといわれる。
連絡先:国立国語研究所03-3900-3111/大蔵省印刷局03-3587-4283
(2001年現在は発行しておらず、古本店で購入すると高価なので図書館を利用することをお勧めします。)
●半田一郎著・大学書林発行「琉球語辞典」(平成11年発行 本体30,000円(税別)。新ローマ字表記。琉和/和琉。八重山(やえやま)、宮古、沖縄、奄美の四大方言別に例示。
連絡先:大学書林03-3812-6281
●その他、地域語として、今帰仁(なきじん)語、伊江(いえ)語、北谷(ちゃたん)語等辞典があります。これらは何れもこれらの出身の学者が研究し書いたものです。

他にも上と似たようなものから簡易なもの、「医学言葉」、「御願(うぐわん)言葉」等までいろいろあります。



参考文献

上村幸雄(1992)、「言語学大辞典:琉球列島の言語」、三省堂
外間守善(1981)、「沖縄の言葉」、中央公論社
比嘉清(1999)、「実践うちなあぐち教本」、南謡出版
原聖(2000)、「言語帝国主義とは何か:少数言語復興運動の日欧比較」、藤原書店
中村淳(1999)、「ことばと社会1号:「うちなーぐち」の現状と展望」、三元社
親富祖恵子(1999)、「ことばと社会2号:琉球弧の言語2」、三元社
原聖(2000)、「ことばと社会3号:琉球弧の言語3」、三元社
比嘉清(2000)、「ことばと社会4号:琉球弧の言語4」、三元社
加藤正信(1989)、「言語学大辞典:日本語(現代 方言)」、三省堂


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